藤井益二 命

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昭和十二年十月十七日
上海須宅橋亭宅にて戦死
小矢部市埴生出身 三十三歳

 【道振玉枝様宛封書】
 御一同様ニハ御変無之候ヤ。御両親様ニハ御変無之候ヤ。小生モ相不変(かはらず)送日致シ居マス故、他事乍御安心被下(くだされ)度。
 小生事少シ左脚ノ具合悪ク、上海ニテ治療ナスト云フモ仲々充分ニ出来ザル為、弐参日様子ヲ見テ皈国致ス可所乍ラ、砲弾ノ破片ガ未ダ残リ居ル為メニ不自由ニ有之所。然シ大シタ心配ハ御無用ナカラ皆様ニ左様申シテ下サイ。何レ皈国セバ、熊本ト広島ト弐ヶ所ニ収容スル様子ナレバ、何レ後便ニテ申述マス。
 何卒体ト心ヲ丈夫ニ持ツテ居ナサイ。
 一ヶ月程スレバ富山ニ皈ルヨ。
 上海ハ、先月ノ拾五日上陸以来始テ雨デス。今日ハ陸軍記念日ナルニ病床ニ居ルハ残念デス。今日ハ沢山皈国スル兵隊ガ居マス。亦之ノ病院デモ毎々〱死ヌ者ガ居マスヨ。私ノ病室デモ、弐参ノ内ニ弐名死ンダヨ。今亦一名死ニ掛ツテ居ル兵隊モ居ルヨ。亦中ニハ砲弾ヤ小銃ヤ機関銃弾ノ飛ンデ来ル音ヲ聞イテ気狂ニナツタ兵モ居ルシ、亦頭ヲ打タレテ気狂ニナツテ、母親ノ事(オツカ〱)ト朝カラ晩迄云ツテ居ル兵隊ヤラ色々デス。
 何レ皈ツタラ面白イ話ガ沢山有ルヨ。
 何レ皈レバ笑話バカリダラウネ。
 今日ハ之レニテ。
 何処カラモ一本ノ手紙モ来ナイガ、何処デブラツイテ居ルカ不明ダヨ。
  左様奈良 
                 藤井
 
陸軍記念日…日露戦争の折明治三十八年三月十日、大山巌率ゐる我が陸軍は奉天大会戦に於てロシア軍を撃破、これを記念して三月十日を陸軍記念日とした。因みに海軍記念日は同じく日本海々戦に勝利した五月二十七日。
 
 
【道振玉枝様宛葉書】
 其の後負傷は思つたより軽く、段々良くなる様ですから、御安心下さい。
 
 
【藤井外次郎様宛封書】
 父母上様
 玉枝殿
 妹へ
 九月二十八日以来、無事毎夜毎日戦線ノ後方ニ於テ目下露営中ニ御座イマス。何レ明日カ明後日ニハ、第一線ニ進出スル事ニ相成リ升(ます)。
 第一線ニテハ糧秣ト飲料水ノ補給ノ充分ナラサルヲ一番苦ニ致シ、
毎日水々トバカリ云ツテ居マス。亦第一線迠(まで)ハ半里程デ、夜中デモ大砲ノ音カラ機関銃ノ音デス。亦空ニハ我軍ノ飛行機ガ飛ンデ居マス。
 聯隊デモ上海上陸ト同時ニ数名ノ怪我人ガ敵砲弾ノ為メ出テ居マス。後方ニ連絡ノ就ク事ガ判リ次第御便リ致シマスガ、之レデ第一線ニ出タラ、当分ノ間出来ヌ事ト思ヒマス。
 今居ル処デモ、敵ノ正規兵ノ死体ガ腐ツテゴロ〱トシテ居ルガ、ソノ側方デ日本兵ハ、飯ヲ炊イテ喰フト云フ状況デス。
 之ノ先ノ上海事件ヨリ大変堅固ナ陣地デスガ、仲々攻撃困難ナ様子デス。
 今居ル処ハ呉淞西方二里位ノ処デス。揚行鎮北方約一里位ノ処デス。
  九月一日午後一時
   九月二日ヨリ総攻撃デス。
 
上海事件…昭和七年一月十八日、支那人による日本人僧侶襲撃、殺害事件に端を発した第一次上海事変。三月三日、支那軍撤退し戦闘停止。五月五日上海停戦協定調印。日本軍撤退。
 
 
【藤井外次郎様宛封書】
 父母上様
 皆様
 桜井様
 皆様御変リ無之候ヤ。
 不思議ニ未ダ生存シテ居マス。御安心下サイ。中隊モ百五十名ノ兵ハ今デハ八十五名トナリマシタガ、之ノ内戦死ヲ確メタモノハ十四名デスガ、多分野戦病院デ何名カハ死ンダ事ト思ヒマス。今居ル処モ散兵線ノ後方五〇〇米位ノ処デスガ、敵砲弾及小銃ノ流弾デ、毎日〱二、三名宛負傷・戦死スルト云フ状況デス。
 何分朝カラ一日穴ノ中ニ入ツテ、出ル時ハ飯ヲ喰フ時ト便所位デス。顔モ洗ツタ事ナク亦手モ洗フ事出来ズ、トテモ〱御話ニナリマセン。
 之ノ間ノ四日五日六日七日ノ戦闘デ、戦死二百二十一名負傷者五百三十名ト云フ状況デス。
 何分大隊長以下各隊長モ戦死傷デスカラ、聯隊全□デ五百名ノ戦死ハ出タ事ト思ヒマス。
 出来ル丈ハ自重シテヤリマスカラ御安心下サイ。今中隊ニハ予備少イ(採用少イ)ガ中隊長ヲヤツテ居マスガ、私ノ言フ通リニヤツテ居マス。
 何レ亦後便ニテ。
 十月十五日午後二時三十五分書終リ。
 桜井ニモ出シ度イガ、手紙ヲ書ク紙ガナクテ閉口シテ居ル様ナ状況デスカラ、之デモ送ツテ下サイ。
 報告書類ヲ出スニモ、弾丸ノ中ヲ紙ヲ貰ヒニ走ルト云フ状況デス。 
 
散兵線…戦闘隊形の一つで、散開した形態。
 
 
【道振玉枝様宛葉書】
 其の後無事で居るか。戦闘に立つた翌日二十一日、砲弾で負傷した。今の所何時傷が治るかわからぬから、其方に行くのも長引くだらう。父さんにも母さんにも宜しく。
 
 
【中隊の慈母 藤井少尉】
 
 藤井益二命の所属してをられた富士井部隊村上隊では『支那事変戦場美談・忠烈勇士の俤 第一輯』を発行。その中に表記の題下に次の文章が載せてある。
 
 君程慈愛に富んだ上官は珍らしからう。予自身も君を慈母の如く感じた事が少くない。十月四日夜半の急追撃に前方部隊と連絡がつかず、而も連続の「クリーク」一本橋の障害に妨害せられ途方に暮れた。予は御下前進を命じて馬匹弾薬は君に一任した。当時前進目標すら判然しなかつたのだ。爾後先進せる予等は漸く第一線に参加した。敵は頑強である。携行した少数弾薬は忽ち撃ち尽して了ひさう。第一線の突撃の機が迫る。此の時予を呼ぶ声が聞える。「弾薬小隊到着!」藤井少尉の力強い声であつた。
十月十七日神嘗祭当日の朝である。予備隊たりし我大隊は橋亭宅に前進する事になり君は設営者として先遣を命ぜられ「行つて参ります」と着易く元気に飛び出して行かれたが噫ゝこれが最後の御別れとならうとは。
 少尉の英霊は今もなほ変らぬ慈愛を以て中隊を護つてゐる。



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