山平賢蔵 命

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昭和十二年十月七日、中支戴家巷方面にて被弾、翌八日、野戦病院にて戦死
富山市安野屋 三十六歳

【山平ひさ子様宛封書】
厳寒の候皆々様には御変りはありませんか。
本二十七日に小包を受取りました。大好物の黒作は、箱が割れて大分出て居りました。早速下士官と会食をして、久振りに黒作独特の味覚に接しました。
丹精の靴下も暖かさうです。有難く御礼を申ます。其の後元気でありますから御安神下さい。
十一月になつて二回戦闘をいたしました。十七日の戦闘は大隊未曾有の戦績で、山平部隊の名は五常まで響きました。敵の遺棄死体


一二、人質八、多数の兵器・弾薬を鹵獲(ろかく)して来ました。
旅団長、聯隊長、大隊長から祝電を貰ひました。寒さも愈々本格的になりまして、討伐も困難となりましたが、自重自愛最後の討伐に成果を挙げるべく馬力をかけて居ります。
厳寒の折柄御自愛を御祈り申します。
御両親に宜敷御伝へ下さい。
                 草々。
 十一月二十八日   山平賢蔵
山平ひさ子様

十一月二十八日…文面から見て昭和十一年である。第九師団に満洲駐箚が下令されたのは昭和十年五月で、隷下の歩兵第三十五聯隊は奉天近くの遼陽に駐屯した。この手紙にある五常(ハルピンの近く)には昭和十一年三月に第三師団の内地帰還に伴ひ、第九師団が移駐した。そして昭和十二年五月、第二師団と交替して富山に帰還した。

 【山平賢一様宛葉書】
シンネンオメデタウ。
オトウサンモ、マンシウデシンネンヲムカヘマシタ。
ウミ、ヤマ、ハナレタトホイマンシウヨリ、ケン一クンノゴケンカウトゴカウフクヲイノル。
 正月元旦
          オトウサンヨリ

正月…昭和十二年の

 【山平賢一様宛葉書】
 オテガミアリガタウ。
 シヤシンヲミマシタ。
 タイヘンオホキク
ナリマシタネ。
 オトウサンモゲンキデ
アスカラタウバツニイツテキマス。
              サヤウナラ。
   賢一殿            父


 【山平賢一様宛封書】
 ケン一ハ
タイヘンオホキク
ナツテゲンキダ
サウダネ。
ライネンハガクカウ
ダカラ、イツシヤウ
ケンメイベンキヤウヲ
シナサイ。   チゝヨリ
 オトウサンモゲンキデ
ヲルヨ。イマワルイモノヲコロシニ
ヤマノナカヘユキマス。

【山平久子様宛葉書】
 突然の出発で、あまりにもあつけない様な気がいたしました。
種々御苦労をかけました。有難たう。
御蔭で元気に乗船、勤務に服して居りますが、今尚輸送船が決定しないので、出航も未定であります。先づ二十五日頃と予想して居ります。
大阪・神戸は、連日出征兵士で軍国気分が横溢して居ります。
写真は一人の方を五枚程焼増をして、兄弟に御送りして下さい。
家事について種々御心配をかけますが、宜敷く御願します。
愈々秋冷の候、くれ〲も御からだを大事にして下さい。
                        草々
  九月二十三日
九月二十三日…これは昭和十二年である。既述の如くこの年五月満洲より帰還したが、七月支那事変が起り、九月九日第九師団にも動員が下令された。依つて隷下の第三十五聯隊も直ちに動員態勢に入り、人員三、八一八名、馬匹七一八頭の動員が完結したのが九月二十日。翌二十一日、軍旗を先頭に招魂社(現護国神社)に参拝、歓呼の声に送られて威風堂々、征途に就いた。
【山平久子様宛葉書】
愈々秋冷の候、皆々様には其後御変りはないかね。私はその日〱を生き永らへて元気で居るから御安神下さい。
去る二十九日に上海に上陸して、直ちに夜行軍で大迂回して、上海北方数里のところに前進して、午後の前進を準備しつゝ進撃して居る。聯隊は師団予備で目下は第二線に居るが、近日中に大場鎮上海の攻撃には第一線に参加することゝ思ふ。
二十九日上海に上陸して、午後七時三十分頃、出発のため道路に集合して居るところへ、対岸から敵の砲撃を受け、中隊から三名の負傷者を出したのは残念である。
敵は夜間になると猛烈に砲撃をするので、第二線に盛に飛で来るので物騒だ。
戦線は各所に人馬の死体が転つて居る。部落は全部破壊せられて、実に悲惨なものである。
水は悪くて、伝染病が流行し、飲水の不足には困つた。クリークの中の死体に無数の蛆がたかつて居る。其の水で飯盒炊事をしてた
べて居るが、味は亦格別だ。
 何時出るかしれないこの手紙を、砲弾の飛んで来る下で書く。先皆の御健康を祈る。
クリーク…溝渠。小河。

 【手帳への書きつけ】
尽忠服国
一死奉公
  賢蔵書
服国 普通は「報国・国に報いる」と書くが、これは「国に服ふ(したがふ)」と訓む。

九月二十五日
一. 午前五時住友岸壁ニ集合。
   馬匹搭載勤務員ヲ指揮シ、午前六時ヨリ揚搭開始ス。
   午前十時馬匹一八四頭ノ搭載ヲ完了ス。
二. 午后二時輸送船利根川丸(ぬ)ニ全員乗艇。
午後四時二十分歓呼ノ声ニ送ラレ、大阪湾ヲ出航ス。
揚搭…船などに物資、馬匹等を乗せる。

九月二十六日 曇后小雨
  波静カナル内海ヲ航行ス。午後二時三十分関門ヲ通過、秋雨煙
 ル下関ノ戸毎ニ、打振ル歓迎ノ国旗ニ感激シ、遥ニ敬意ヲ表ス。
  午後四時半頃ヨリ警戒配備ニツキ航海ヲ続ク。
  軽度ノ腹痛ヲ感ス。

九月二十七日 晴
  風穏カナレト波高シ。
  船体ノ動揺激シク船暈(ふなよひ)ノ徴アリ。

九月二十八日 晴
  天気晴朗ニシテ平穏ナル航海ニ元気漸ク快復ス。
  午後十一時十五分揚子江口ニ着淀泊ス

九月二十九日 曇后晴
  午前七時三十分黄浦江ヲ遡江、ウースン附近ノ廃墟セル戦場ノ  惨憺タル光景ヲ望見ス。
  正午ヨリ上海ニ揚陸、午後一時頃ヨリ馬匹卸下開始、五時三十分終了ス。
  午後七時三十分頃第一線ニ向ヒ進撃セントスルヤ対岸ヨリ敵ノ野砲弾ノ洗礼ヲ受ケ、中隊ヨリ長谷川伍長、新開・鹿熊一等兵ノ三名負傷、馬匹一頭損傷ヲ受ケタルハ遺憾ナリ。

九月三十日 曇
  夜来ヨリ暗路ヲ黙々トシテ第一線ニ向ヒ、行軍ヲ続行ス。敵ハ盛ニ砲撃ヲナスモノノ如ク砲声天ニ轟ク。
  午前十時過、第二線展開地王家屯ニ到着露営ス。
露営…野外に陣営を張る事。

十月一日 晴
  午前八時ヨリ中隊主力ハ道路修理、一部ヲ指揮シ、露営地ノ警戒及馬匹ノ手入ニ任ス。
  部落ヨリ豚ノ親子三頭ヲ引張ツテ来テ、夕食ニハ豚ノ味噌汁ニ舌鼓ヲ打ツ。露営地前日ニ同シ。
  クリークノ中ノ死体ニ無数ノ蛆ガタカツテ居ル。其ノ水デ飯盒炊事ヲナスノモ戦地デナクテハ出来ヌ。味ハ亦格別ダ。

十月二日 晴
  午前八時露営地出発、愈々第一線ニ近接スルニ従ヒ、路傍ニハ
死体ガ転ツテ臭気鼻ヲツク。飛行機ノ空爆ハ物凄ク、黒煙天ニ冲(のぼ)ツテ居ル。
  午前十時三十分帰家衖ニ到着、午後ノ前進ヲ準備シ、午後六時
同地ニ露営ス。

帰家衖…帰家巷に同じ。

十月三日 曇後夕立
  露営地ニ於テ午後ノ前進ヲ準備、余暇ニ帰家衖ノ戦跡ヲ見学ス。
  午後一時三十分露営地出発、張家角ニ前進、午後四時午後ノ前
 進準備ノタメ同地ニ露営ス。夜ニ入リ敵ノ砲撃盛ニシテ附近ニ炸
 裂ス。
  時々頭痛ヲ感ズルモ元気旺盛ナリ。
  駄馬富川号疝痛(せんつう)一時小康ヲ得ルモ遂ニ斃死ス。
疝痛…烈しい発作性の腹痛。
斃死…たふれ死ぬ事。

十月四日 曇
  聯隊(一大欠)ハ第一線ニ増加、大隊ハ依然師団予備トナリ、
 午前九時北王宅ニ露営地ヲ移動、午後ノ前進ヲ準備ス。
  夜間敵ハ盛ニ砲撃ヲナシ附近ニ炸裂ス。
  流弾ハウナリヲ立テ飛ブ。
一大欠・師団予備…後記

十月五日 曇
一. 前日ノ露営地ニ於テ対陣。
二.  師団予備ノ任務ヲ完了、聯隊長ノ指揮下ニ復帰ノタメ、午後六時三十分露営地出発、陸家宅ニ前進ス。
    同地附近前進中、敵ノ猛射ヲ受ク。午後十時三十分頃岩
 田一等兵ハ、右耳下貫通銃創ヲ受ケ即死ス。
  陸家宅ニ於テ前進ヲ準備シ、夜ヲ徹ス。

十月六日 曇小雨
  午後五時三十分陸家宅出発、第一線参加ノ為戴家巷ニ前進ス。
  愈々御奉公ノ時機ガ来タ。一死奉公生還ヲ期セズ。
一死…一命を捨てる事。
*十月七日雨、(注・この日、記載はないが、午後四時過ぎ被弾、翌八日に野戦病院にて歿す。)

一大欠・師団予備…山平准尉は歩兵第三十五聯隊第三大隊(一個聯隊に大隊は三個。一個大隊約三百名)の重機関銃小隊長であつた。そして十月四日の「聯隊命令」の「二」に依れば「聯隊(第三大隊欠、山砲兵一個中隊属)は左翼隊左第一線となり云々」とあり、「三」「四」で第一、第二各大隊に攻撃、進出を命じ、「五」で「第三大隊は師団予備隊、戴家巷北側に位置すべし」と命じてゐる。つまり三箇の大隊のうち、一箇が聯隊から欠けて、師団の予備に回つたと云ふ意味である。第三大隊はその後十月五日に師団予備から聯隊復帰を命じられ第一線に突入した。

【畠山三次歩兵第三十五聯隊第三機関銃中隊長による戦死状況報告】
 前日ニ引続キ戴家巷南側ニアリテ、突撃陣地ヲ構築中、雨ハ降リ注キテ作業渉々(はかばか)シカ
ラス。午後二時命令ニ依リ第一・第二小隊ハ各々第一線両中隊ニ配属セシメ、中隊主力ハ左第一線タル第九中隊ノ左ニ出テ、之カ戦闘ニ協力セリ。午後三時頃第九中隊ノ須宅ニ突入ニ際シテハ、当時第三小隊長タリシ准尉(注・山平准尉)ハ、第四小隊ト呼吸ヲ合セテ、銃身モ焼ヨト撃ツテ撃ツテ撃チマクル。流石頑強ナリシ敵モ我カ猛射ニ居タゝマラス、宜シク陣地ヲ捨テゝ退却スルノ止ム得サルニ到ラシメ、第九中隊ヲシテ難ナク須宅突入ノ好機ヲ与ヘタリ。然レトモ、右方陸家橋南側クリークノ線ノ敵ハ依然頑強ニ居残リ、右斜方向ヨリ猛射ヲ浴セカケタリ。准尉ハ、雨ト降リ注ク敵弾中ヲ敢然立ツテ小隊ヲ率(したが)ヘ、須宅南端ノ線ニ進出セリ。此ノ時速ク彼ノ時遅ク、約百名ノ敵ハ雪崩ヲ打ツテ第九中隊左前方ヨリ逆襲シ来ル。好機襲来トハカリ小隊長ハ、部下小隊ノ陣容ヲ
立直シ、機ヲ失セズ猛射ヲ浴セカケテ、遂ニ天晴、敵乍ラ勇敢ナル逆襲部隊ヲ見事撃退シ、第九中隊ノ須宅占領ヲ確保セシメタリ。然レトモ惜シムヘシ、将ニ鬼神ト化シテ部下ヲ指揮セル准尉ノ頭部ヲ貫通セル敵一弾ハ、遂ニ此ノ勇猛ナル小隊長ヲシテ再起シ能ハサルニ到ラシム。我ヲ忘レテ駈付ケテ抱起ス第五分隊長ノ連呼スル、「小隊長殿」ノ言ヲ聞キ、不思議ニモ力強ク「敵ヲ倒セ、後ヲ頼ム」ト一言、昏々トシテ眠ルカ如シ。斯クテ病院ニ収容セラレタル准尉ハ、翌昭和十二年十月八日、空シク江南ノ花ト散リ果テタノテアル。

 【長男賢一氏の回想】
 私は昭和六年三月三十一日に五福の陸軍病院で出生したが、戦死を覚悟してゐた父は一日も早く小学生の姿を見たいと、出生日を一週間早めて、四月六日生れとして届出た。
 五福の練兵場へ友達と遊びに行つた時、休憩中の兵隊に機関銃を撃たせて貰ひ、衝撃が腹にまで響いたのを鮮明に覚えてゐる。
 小学校に入学した頃、朝に父を迎へにきた当番兵が、先に私を馬に乗せて近くの安野屋小学校まで送つてくれた。
 富山大橋の安野屋寄りの所で夕方、父の帰りを待つてゐたこともぼんやりと想ひ出される。



富山縣護國神社
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