御英靈のお話12 上田貢 命

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昭和二十一年六月六日
フィリピンマニラにて法務死
富山市石金 三十歳
 
法務死・・・ 大東亜戦争後、東京や海外の軍事裁判に依り、
      死刑に処せられた方々を、厚生省では「法務死」
      と称することとした。後注参照。

遺芳館アナウンスガイド12
上田 貢命(うえだ みつぐのみこと)
 憲兵曹長 昭和二十一年六月六日
 フィリピンマニラに於いて法務死
 富山市石金出身 三十才
 

 上田貢さんは、陸軍の兵士として出征されましたが、途中優秀であつたため上官の命により憲兵になることをすすめられました。戰争終結したにもかかはらず、連合国が報復のために勝手につくりあげた東京裁判(極東国際軍事裁判)により、厳密な区別もないB・C級といふ罪名をつけられ、昭和二十一年六月六日、復讐されるごとく銃殺されたのです。この模様は後の資料を調べると、凡そ次の様に運ばれたといひます。
 一本の立杭に目隠しをし縛られ、十三人の米兵が半円形に取り囲み、その中の一人の狙撃兵の実弾により頭部銃貫傷のため殺されてしまひました。
 上田貢命は、マニラから昭和二十一年四月二十三日付の郵便にて、遺書を送られたのでした。その遺書は米軍により何度も検閲で破られた跡が見られました。遺書には、一,二,三と項目があり、一には御両親様へ「私ノ死後、新聞ラジオ等ニ依リ、私ノ戰争犯罪事実ガ誤報サレ伝ハル事ヲ恐レ、次ニ簡単ニ事実ヲ書キ残シマス」とあり、冤罪であることを記し残してをります。二には妻へ「最愛ナリシ愛子ヘ」として「君ガ希望セラルゝ途(みち)ヲ邁進セラレン事ヲ」願つてをられるのであります。三には「未ダ見ザリシ惠子ヘ」として、「前略・・・ダカラ大キクナッタラ立派ナオ母サントナッテ立派ナ日本男子ヲ沢山生ンデ、父サンガアメリカト戰ッテ立派ナ戰死ヲシタ事ヲ伝ヘテ下サイ」と結ばれてゐます。さらにここで大切なことは、追伸の形で「オ父サンハ何時モオ前ト共ニ居テ、オ前を護つて居る事を忘れるな」と書かれてゐるのですが、最後の「オ前を」の「を」から「忘れるな」まで、それまでのカタカナから平仮名に変つてゐることに、深い感慨を感せずにはゐられません。
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 つまり、カタカナから平仮名に変つた瞬間、軍人であることより父親となりきつてをられることがうかがふことができ、未だ見ざりし惠子さんへの深い愛情が読みとられ、遺書を読む人を一層感動せしむるものであります。
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 いはゆる「戰犯」について
 連合國軍によつて不当に裁かれた日本人のいはゆる「戰犯」(Α級В級С級と決めつけられた方々)と云ふこの名称は、戰勝國が報復のために勝手につけた名称であり、この三種類の違ひは、罪の軽重の度合ではなく、勝手につけた罪の種別として使用された言葉であります。
 講和条約発効後(昭和二十七年四月二十八日)日本弁護士会をはじめとして、戰犯釈放運動が全國に広がり、たちまち四千万名(當時の國民の大多数)もの署名が集まりました。國民の熱望を受け、國会では、「戰争犯罪による受刑者の赦免に関する國会決議」を可決、以後、遺族援護法や恩給法の改正がなされ、政府は戰犯の刑死や獄中死者を「法務死」と位置づけ、その遺族の方々にも一般戰死者と同様に遺族年金や弔慰金を支給されることとなつたのです。即ち、日本國は、法治國家としていはゆるΑ級戰犯といはれた方々も、В、С級といはれた方々も無法野蛮な報復行為によつて殺された戰死者としたのであります。そして、靖國神社或は護國神社では、「昭和殉難者」としてお祀りされてゐます。
 詳しくは、日本國には、戰争犯罪人はゐないをクリックして下さい。



富山縣護國神社
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