富山縣護國神社
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昭和天皇御製板
四月の御製板を奉掲致しました。(平成二十年四月六日)

  県庁の屋上にしてこの町の
        立ちなほりたる姿をぞ見る
  

 大東亜戦争も終局の様相を濃くしてゐた昭和二十年八月二日未明、富山市はアメリカ空軍爆撃機百数十機による空襲を受けました。一般市民の居住地に対するこのやうな爆撃は明らかなる戦時国際法違反の暴挙でした。併しアメリカは日本全国の都市に対してこの暴挙を繰返してゐたのです。
 この空襲は生半可なものではありませんでした。広島、長崎への原爆投下を除けば地方都市への空襲としては最も大規模なもので、被災人口は十一万人に近く、その内死者は二千七百人余、負傷者約八千人、そして大小約二万五千のビルや家屋が焼き払はれ、僅かに被災を免れたのは主な建物としては富山県庁や大和百貨店、NHK等だけでした。そして死者の遺体は雨晴の浜の辺りにまで流れ着いたのです。
 天皇様はこれら惨禍を蒙つた国民に深く思ひを致され戦前の二十年三月十八日には都内の被災地を視察されました。そして戦後昭和二十一年二月、神奈川県の川崎、横浜両市の被災地を訪ねられたのを皮切りに、愈々全国を訪ね、敗戦の痛手に苦しむ国民を、御親(おんみづか)ら慰問、激励しようと御決意遊ばされたのでした。かうして昭和二十九年の北海道を最後に、当時も猶アメリカの占領下にあつた沖縄を除く千四百十一箇所、総行程三万三千キロに及ぶ御巡幸を果たされたのです。この天皇様の尊い大御心と、これに応(こた)へ奉(たてま)つらんとする国民の真心、これこそが正に日本の戦後復興の原点、原動力であつたのです。
 富山県への御巡幸は昭和二十二年十月三十日、お召列車は石川県から倶利伽羅トンネルを越えて高岡へ、そしてオープンカーにて富山市へ。会場の神通中学校では五万人の市民が奉迎、一同「立山の空にそびゆる雄々しさに」と熱唱、感涙に咽びつつ万歳を叫んだのでした。そしてその折、焼け残つてゐた富山県庁を行(あん)在所(ざいしょ)(天皇の仮のお宿)とされたのです。富山県内御巡幸の三日目十一月一日、細入村にて立山杉をお手植ゑ(これが後の全国植樹祭の原点となつた。)、この夜、県民による奉迎夜会が県庁前広場にて挙行され、麦屋節、をはら節等の郷土芸能を始め、県民挙げてあらん限りの至誠を以て奉迎申し上げました。陛下は行在所の窓を開け放つて数々の奉迎の様子を天覧(天皇が御覧遊ばすこと)、最後は国歌「君が代」の大合唱、尾山富山市長が万歳三唱の音頭をとつた時、天皇が御出ましになり県民の熱誠にお応へになりました。この御出ましに感激した市長は土下座、知事と相擁して号泣したのでした。
 この御製は昭和三十三年国民体育大会に行幸の御砌に、県庁屋上より、昭和二十二年の御巡幸の時とは打つて変つた富山市内の力強い復興の様を天覧遊ばしての、お喜びの「国見(くにみ)」(高い所から其の地の情勢を見給ふ)の御製なのです。

三月の御製板を奉掲致しました。(平成二十年三月一日)

高だかとみねみね青く大空に
      そびえ立つ見ゆけふの朝けに
  

 昭和三十三年十月、両陛下は国民体育大会に行幸啓遊ばされましたが、その御砌初日(十八日)と二日目(十九日)には富山市の電気ビルホテルが行在所となりました。
 この御製には「立山連峰」の御題がつけられてゐますが、恐らく二日目(十九日)の朝に電気ビルホテルのお部屋より遠く立山連峰を望み、詠み給ひし御製でありませう。この日は日中には暫らく小雨も降つたやうですが、朝は「天皇晴れ」の上天気でした。大正十三年御成りの節は十一月で、当時は初めての御来県であり、新雪の白銀に耀(かがよ)ふ立山は一際御印象深くあらせられた事と拝察される次第です。二度目に当る戦後の御巡幸の御砌には立山を詠み給ひし御製は拝されなかつたやうですが、三度目の此の度は時季的には初回より二週間近く早く、冠雪は見られたでせうが、白銀に耀ふといふ程ではなかつたものと拝察されます。立山は春夏秋冬、朝昼夕と、夫々に時々刻々と変化しつつ雄大秀麗、観る者をして感嘆措く能はざらしめる、正に霊峰です。初回は摂政宮としての陸軍大演習統監、二度目以降は天皇として、国史未曾有の終戦間も無くの頃、そして今回は戦災から立ち直つた富山市内外の様子。夫々の御砌に、大空に聳え立つ立山連峰の雄姿を天覧遊ばしたのです。
 なほ、この十九日には国民体育大会秋季大会開会式に臨御されましたが、その後の天覧、御視察の途次、此処富山縣護國神社にもお立ち寄りに相成り、昇殿の御親拝こそありませんでしたが、鳥居の内にて御拝礼、別途に神饌料御下賜の栄にも浴しました。
 この夜、富山市児童クラブ協議会の児童、父兄を中心に「奉祝提灯行列」が行はれ、電気ビルホテル周辺は二万人余の市民が手に手に提灯を捧げ歓呼の声をあげて行進、沿道にも国民体育大会の選手や市民、県民数万人が溢れ出て熱狂的な奉祝奉迎風景が繰り広げられました。午後八時行列の先頭が電気ビルホテルにさしかかるや、両陛下は提灯を御手に四階バルコニーに御出まし、提灯を右に左に大きく振つてお応へ賜つたのです。お疲れの両陛下に配慮した宮内庁は当初御出ましは十五分間だけとしてゐましたが、両陛下は行列の最後尾が着く迄、四十二分間バルコニーにお立ち遊ばして、最後に湧き上がつた天皇陛下万歳の大歓声にご満足げに大きくお応へあつて、漸くお部屋にお入りになられたのでした。予定時間を大きく超えて御出まし戴いた事に恐(きょう)懼(く)(おそれ、かしこまる)した富川富山市長は、翌朝電気ビルに赴き侍従を通じて昨夜の長時間の御迷惑のお詫びを言上しました。処が、天皇様は却つて、疲れるどころか、老若男女を問はぬ熱誠籠る歓迎を嬉しく思ふ旨の御言葉を伝へ給うたのでした。
 雄大秀麗なる霊峰立山、市民県民の心からなる奉迎、そして逞しく復興した町並。これらがどれ程大御心を安んじ奉つた事でせうか。

二月の御製板を奉掲致しました。(平成二十年二月一日)

 ときどきの雨ふるなかを若人の
        足なみそろへ進むををしさ
  
 昭和三十三年十月十九日から二十三日の五日間に亘り、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、第十三回国民体育大会秋季大会が富山県内各地を会場に挙行されました。本大会には当時の四十六都道府県を始め、復帰前の沖縄から、又、初参加のブラジルからも合せて、総勢一万四千名の選手団が参加しました
 両陛下は十八日午前九時半皇居御出門、午後六時半お召列車は秋雨けぶる富山駅に湧き上がる「万歳」の声の中に到着。富山県警音楽隊の国歌吹奏裡に、菊花御紋章の金色燦然たる小豆色のお召車に御乗車。駅構内から本日の行在所電気ビルホテルの間には、四万五千名の県民が日の丸の小旗を打ち振り、万歳を連呼して奉迎申し上げました。
 十九日は先づ県庁にて吉田知事に県政の概況、特に「稲の作柄」「富山県の結核患者が激減したさうであるが、それはどうしてか」「立山、黒部の自然保護」に就いて御下問(お聞き質(ただ)しになる)。知事は「収量予想は百八十万石から二百万石」「特に農家に台所改善を呼び掛けたのが効果的」「高山動植物保護に腐心するも、不心得な登山者もをり困つてゐます」と奉答申し上げた。次いで屋上より国見遊ばされ、十一年前の一面の焼土から、今日ここまで復興した様子をお喜び遊ばされました。その折の御製が「県庁の屋上にしてこの町の立ちなほりたる姿をぞ見る」(四月奉掲の御製)なのです。これに引続き県庁内に特設された天覧室にて産業御奨励の思召しにより繊維、化学、医薬、機械、金属、銅器、漆器、農産、水産、木工、菓子、清酒等々縫針のやうな雑貨品に至るまで総数二百四十八点にのぼる品々を天覧遊ばされたのです。尚この後自治功労者等に謁を賜りましたが、特に県遺族会舘会長以下十七名の遺族会役員は両陛下より優(いう)渥(あく)(極めて懇ろ)なる御言葉を賜るの栄に浴しました。
 十時五十五分、両陛下富山陸上競技場に着御。自衛隊中央音楽隊、県警音楽隊、県下中高校ブラスバンドと総勢五百名が勇壮なる楽の音と共に入場、「富山県民の歌」合唱、打上げ花火十発、十時五十八分、両陛下国歌吹奏裡に貴賓席に、そして立山の峰々に響けと高らかにファンファーレが鳴渡り、開式宣告、愈々大選手団の入場行進が開始された。その行進の殿は本県選手団六百五十七名。ワインレッドのウェアに純白のズボン。総員整列、吉田知事開会宣言があつて、聖火の最終走者岩川県体協副会長が聖火台に点火、国旗、聖炎旗掲揚、「若い力」合唱、文部大臣挨拶等があり、天皇陛下より御言葉を賜つた後、選手宣誓、この時七百羽の鳩、三千五百個の七色の風船が舞ひ上がり開会式の最後を見事に飾つたのです。この御製は、その折、「ときどきの雨」をものともせず堂々溌溂たる行進を続ける若人、次代を担ふ青年を見(み)行(そな)はして、その「ををしさ」を称へ給ひし御製なのです。

一月の御製板を奉掲致しました。(平成二十年一月十日)

立山の空にそびゆるをゝしさに
       ならへとぞ思ふみ代のすがたも


大正十年、天皇様の御不例(天皇様の御病気)に依り、皇太子様(後の昭和天皇)が摂政(天皇様の代理)に御就任遊ばされました。大日本帝国憲法第十一条の定めでは、陸海軍(当時は空軍はありませんでした)は大元帥である天皇様の統帥の下に在り「皇軍」と称されてゐました。大正十三年秋、陸軍大演習が富山石川の地に於て行はれ、これが統監の為に摂政宮様は当地に行啓遊ばされました。そして十一月三日時恰も明治天皇御誕生日(今の「文化の日」。昭和二年から同二十三年の間は「明治節」)の佳き日。西砺波郡埴生村(現小矢部市)に立たれた摂政宮様は、快晴の秋空の下、白銀にきらめく立山連峰の雄大なる山容に感嘆これ久しうし給ひ、翌大正十四年の歌会始の折「山色連天(山色天に連なる)」の勅題(天皇様がお出しになる、歌の御題)にて此の一首をお詠みになられたのでした。この御歌を拝した富山県民の感激はただならず、県民一致してこの御歌の碑を建立する事となりました。その碑に最も相応しい場所、雄山の頂上直下、三の越の巨大な自然石にこの御歌を謹刻する為、その謹書を侍従長入江為守子爵に依頼しました。峻険なる岩場での期間も短く限られた難工事、その困難を克服して大正十五年夏、竣功を見るに至りました。此の年の十二月二十五日大正天皇は崩御、摂政宮が践祚(せんそ)(先帝崩御の後、直ちに新帝が御位を継がれること)し給ひ「昭和」と改元されました。
 三の越の此の碑の標題は「東宮御歌」とされてゐます。たとへ東宮時代の御歌でも御即位後は「御製」と申し上げるのですが、「東宮御歌」とあるのは、お詠みになつたのも、碑の工事に着工したのも昭和天皇がまだ東宮の御時であつたからなのです。その上、見逃してはならないのは「み代」の持つ意味です。天皇として詠まれた場合は「わが世」或は「世」とされてゐます(一例‐昭和八年の御製「あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」)。つまり「立山の御歌」は東宮として摂政宮として、御父君大正天皇の御治世を称へ奉つて、敬語である「み(御)」をお付けになつたのです。大正から昭和への御代替りと言ふ歴史の重大な節目を雄弁に物語つてゐるのが、此の三の越の「東宮御歌」の碑なのです。そして「立山の御歌」は岡野貞一に依り謹作曲がなされ富山県民歌となり、式典等事ある毎に国歌と共に斉唱されて来ました。
 昭和天皇の御製碑は全国に凡そ百四十基建立されてゐます。実はその中の一割、十四基もの昭和天皇の御製碑が我が富山県内に建立され、その中の四基が「立山の御歌」の碑となつてゐます。富山県民歌と言ひ、最多の御製碑と言ひ、数ある昭和天皇御製の中でも、富山県民の此の御製に対する思ひが如何に特別に深いかがよく分ります。

十二月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年十二月一日)

はてもなき礪波のひろ野杉むらに
         とりかこまるる家々の見ゆ

 昭和四十四年五月二十六日頼成山の植樹祭にてお手植ゑの後、両陛下は城端の縄ヶ池の水芭蕉群生地に御成り、散策遊ばされた事は「みづばせを」の御製の解説にある通りですが、昭和四十六年五月に建立された此の「はてもなき」の御製碑に刻まれた御製も亦その途次に詠み給ひし御製です。此の御製を刻んだ特異な形の御製碑は縄ヶ池の手前、約一里(四キロメートル)の見晴しの好い林道の脇に建立されてゐます。その碑文には〔天皇陛下には、昭和四十四年全国植樹祭のため本県下行幸のおり、この地からご展望になった散居村が深くお心にとまり、今春歌会始めの儀に、お題「家」にちなんでその風情をお詠みになった。これを記念にきざむ。〕とあります。
 「散居村」と言ふのは読んで字の如く「散らばつて居住する村」のことです。農家は夫々自分の家の周囲の農地を耕作してゐる為、碁石を散らしたやうに隣家が遠くに在る村落形態となつてゐて、夫々の家は雪や風や暑さから家を守る為の屋敷林(「カイニョ」と言はれる)に囲まれてゐます。このやうな村落形態となつた要因として、代表的な散居村として知られる砺波市の広報に依りますと「砺波平野は主に庄川の作った扇状地です。かつて、庄川扇状地の未開拓地を開くにあたっては、微高地の耕土の厚いところを選んで住居を定め、その周囲を開いていきました。その場合、水の豊かな扇状地のため、どこでも容易に水を引くことができ、地形的な制約というものがそこにはありませんでした。そのため、家々は散らばり、それぞれの周囲を耕作するようにな」つたと言ふことです。又「散居村」のやうな形態は「出雲の斐川平野、静岡県の大井川扇状地、北海道の十勝平野など、富山県内でも、黒部川や常願寺川などの扇状地の一部」にも見られるものの、その規模は砺波平野(散居村地帯の広さ約二百二十平方キロ、戸数約七千戸)が最も典型的である由です。なほ、外国では米国やカナダにも似たやうな例が有るさうです。
 なほ、この日の行在所は高岡市雨晴の海沿ひのホテルでしたが、皇后様は「富山にて」の御題にて「北国の海よりいづる日のひかり力づよくもかがやきわたる」とお詠みになられました。
 我等の郷土富山県に於て、この植樹祭に行幸啓の御砌、天皇様には秀麗なる陸の眺望を、皇后様には雄大なる海の景観を三十一文字に詠み給うたのですが、この栄誉を忘れること無く、これからも県民協力一致して麗しい郷土を守つて行きたいものです。

十一月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年十一月一日)

水きよき池の辺(ほとり)にわがゆめの
      かなひたるかもみづばせを咲く

 昭和四十四年五月二十六日頼成山の植樹祭にてお手植ゑの後、両陛下は今の南砺市城端の縄ヶ池の水芭蕉群生地に御成り、散策遊ばされました。水芭蕉の天覧は天皇様の御希望であられた由で、当時の徳川侍従の話では、両陛下が水芭蕉を御覧遊ばすのは此の縄ヶ池が初めてとの事でした。御製に「わがゆめのかなひたるかも」と詠ませ給ひし所以です。
 所で、縄ヶ池に在る御製碑には「みずばしょう」とありますが、昭和四十九年に刊行された両陛下の御歌集『あけほの集』には「みづばせを」と表記されてゐます。この点に就き昭和六十一年に、天皇陛下御在位六十年を奉祝して出版された『富山縣の今上陛下御製碑』に載る元富山県立図書館長廣瀨誠先生の御考察を抄出、参照して解説に代へませう。
 一、昭和四十四年五月、縄ヶ池にて水芭蕉天覧。
 二、翌年元旦の各新聞紙上には、宮内庁発表の「みずばしょう」と表記された御製が謹載された。
 三、その翌四十六年春、縄ヶ池に御製碑建立。それには宮内庁発表の「みずばしょう」の表記が用ゐられた。
 四、昭和四十九年四月、『あけほの集』刊行。「みづばせを」と表記されてゐた。陛下は植物学者として『那須の植物』等を著述の際、学界の通例に従ひ、植物名は現代仮名遣・片仮名書きで表記された。一方、御製に於いては常に正仮名遣をお用ゐなされてゐる。
 五、この縄ヶ池の御製は、当初は植物学者として、学界通用の「ミズバショウ」をそのまま平仮名にして表記されたが、後、歌集『あけほの集』を御刊行になる際、正仮名遣に御直しになつたのではなからうかと、恐れながら拝察申上げる。
 六、陛下が動植物名をお詠みになつた例は「しらねあふひ」「はるとらのを」など大部分が正仮名遣表記。併し中には「にっこうきすげ」の如く現代仮名遣の例もある。
 七、水芭蕉の場合は「水」が古来の国語「芭蕉」が漢語の複合語。「芭蕉」は字音(じおん)仮名遣(かなづかひ)(漢字の音を仮名表記する際の仮名遣。正仮名遣即ち歴史的仮名遣では現代の同音の漢字でも、その仮名には書き分けがある。「様‐やう」「要‐えう」等)では「ばせう」であるが、俳人芭蕉が「ばせを」と署名したやうに「芭蕉」は伝統的に「ばせを」とも表記されて来た。
以上のやうな経緯から「芭蕉」には「ばせを」「ばせう」「ばしょう」と三通りの表記が見られる訳です。因みに、この御製板の解説には祖国の歴史、伝統を護持尊重する立場から、正仮名遣即ち歴史的仮名遣を用ゐてゐます。

十月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年十月一日)

頼成もみどりの岡になれかしと
       杉うゑにけり人びととともに

 四月の「県庁屋上よりの国見の御製」の所で略述しましたやうに富山県は植樹祭の原点の光栄を担ふ県なのですが、本県に於て第二十回国土緑化大会(この第二十回迄が「国土緑化大会」で、第二十一回から現行の「全国植樹祭」が正式名称となつた。なほ本県の此の大会は「四十四年植樹行事ならびに国土緑化大会」と称された。)が開催されたのは昭和四十四年五月二十六日のことでした。両陛下の本県への御成りは三十三年の国民体育大会以来実に十一年ぶりであり、二十四日東京を御発輦、二十五日は県内各所を御視察、二十六日愈々砺波市頼成山を会場に植樹祭が挙行されました。
 当日は風やや強く晴時々曇、時に小雨。植樹には都合の良い日となり、一万二千六百名の参加者は午前十時より緑化功労者の表彰等の国土緑化大会を開催、午前十一時お召車会場入口に到着、花火が高らかに両陛下の着御を告げ、植樹行事が始まりました。先づ全参加者による国歌斉唱、次に天皇様より「今後も関係者一同が益々協力して、国土緑化を推進し、国運の進展に寄与するよう、切に希望します」との御言葉を賜り、愈々お手植ゑ。両陛下は立山杉、ぼか杉、増山杉を夫々一本、「森」の形になるやうにしてお植ゑ遊ばされました。そして次に一万二千六百名の参加者の手により一万五千本の苗木が六ヘクタールの会場に植ゑられ、両陛下はこれを頼母しげに御覧になられたのです。
 「全国植樹祭」には毎回その大会のテーマが掲げられてをり、この第二十回大会のテーマは「低質広葉樹の高度利用と拡大造林の推進」でした。過去十九回の大会では殆どが松の類で、桧が四回、杉は三回で、今回の富山県で杉は四回目となりました。近年平成の御代になつてからは橅、桜、山法師等の樹種もみられます。又、昭和二十五年第一回の山梨県大会のテーマは「荒廃地造林」で、以下第二十回の富山県大会迄はそのテーマの殆どに「造林」の二文字が見られます。正に、大御心を戴いて、戦後復興に邁進せんとする先人の息吹が伝はつて来るやうです。このやうな先人の努力のお蔭を蒙り、素晴らしい「緑」を蘇らせた現在では、その大会テーマも昨平成十八年岐阜大会では「ありがとう 未来へつなげ 森のめぐみ」でした。今年平成十九年北海道大会のテーマは「明日へ 未来へ 北の大地の森づくり」です。先人の努力を承け継いで、豊かな「緑」を未来に伝へる事の大切さを語り掛けてゐるのです。
「富山県植樹祭」の御題の付けられた此の御製の碑は頼成山に建立されてゐますが、「人びととともに―天皇も、国民も皆一緒に」と仰せ給ふ点に殊に留意しなければなりません。この大御心を大切にして、今後も郷土の、更には国土の緑化にお互ひに努めたいものです。
なほ、当神社におきまして毎年○月に「どんぐり祭」を行ひ、神奈備(かんなび)の杜(もり)(神様の鎮座し給ふ神域の杜)をより充実させるやう努めてゐますのも、この大御心を戴き奉つてのことなのです。

九月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年九月一日)

ふる雨もいとはできそふ北国(きたぐに)の
    少女(をとめ)らのすがた若くすがしも

 
 これも昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌詠ませ給ひし御製です。
 十月二十二日、この日は今回の五日間に亘つた行幸啓の最終日です。朝は生憎の雨でしたが軈て雨も上がり、午前中は先づ高岡古城公園の相撲場にて相撲競技御観戦、次いで砺波市の富山県農業試験場砺波園芸分場を御視察になられました。途次、砺波園芸分場の近くにてお召車の車中よりチューリップ苗の球根植付作業も御覧遊ばされました。この時周辺に繰り出した奉迎の人々は十万人、砺波市始まつて以来の人波であつたと当時の新聞は伝へてゐます。
 砺波市をお発ちの頃より折悪しく又雨が降り出し、午後零時半石動小学校御到着。小憩の後女子ホッケー競技を御観戦、雨などものともせず元気一杯に熱戦を繰り広げる少女達の姿に感銘を受けて詠ませ給うたのがこの御製なのです。
 昭和天皇の御製碑が全国に凡そ百四十基建立されてゐて、実はその中の一割、十四基もの御製碑が我が富山県内に建立されてゐる事は「立山の御歌」の解説にある通りですが、その本県の十四番目の昭和天皇御製碑となつたのが「女子ホッケー競技 石動小学校」の御題の付けられたこの御製碑なのです。
 県内には既に十三基の昭和天皇御製碑が建立され、昭和天皇御製碑全国最多の栄誉を担ふ中、「女子ホッケー競技」御製碑の建立も予てより、地元は素より県民各界各層から鶴首待望されてゐました。そんな折、篤志家の寄付を得て昭和六十二年に至り富山県ホッケー協会創立三十周年を期して、かつての国民体育大会ホッケー競技場の近く、小矢部市城山公園の一角に此の「女子ホッケー競技」の御製碑が建立されました。
 両陛下は毎年の国民体育大会に行幸啓遊ばされ、天皇様は特に開会式にての御感懐を御製にお詠み遊ばす事が殆どです。従つて何の競技か特定出来る御製は稀有(けう)(滅多に見聞き出来ない)と言ふも過言ではありません。オリンピック関連の御製でも同様です。管見(くゎんけん)(管の穴から見るやうな狭い知識)に入つたのは何れも国民体育大会の御製で「高崎山見ゆるテニスコートに・力つくしてホッケーきそふ―昭和四十一年大分県」「若人たちの角力(すまひ)(相撲)見にけり―昭和四十四年長崎県」「ハンドボールを神埼に見つ―昭和五十一年佐賀県」の四首です。競技名が分るのはこれくらゐでせうか。
本県での御製には御製そのものには「ホッケー」とは詠み込まれてゐませんが、御題に「女子ホッケー競技 石動小学校」と競技名も会場も明記されてゐると言ふ、稀有な一例なのです。

八月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年八月一日)

   秋深き夜の海原にいさり火の
      ひかりのあまたつらなれる見ゆ

 
  昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、二十一日の行在所となつた氷見市の譽一山荘より、夜の海に漁をする漁船の灯りを望み給ひし御製です。この御製には「氷見の宿」の御題が付けられてゐますが、昭和三十四年その「氷見の宿」の向ひに御製碑が建立されました。
 三千メートル級の立山連峰を始め、多くの山々に囲まれた富山湾は、その山々を縫つて流れ込む水量豊富な七大河川等々のお蔭で魚の餌となるプランクトンも多く発生し、漁場としては絶好の環境と言はれてゐます。氷見、新湊、魚津等全国的にも有名な漁港の多い所以です。この御製には「秋深き夜の海」そして「いさり火」とありますので、これは氷見沖の烏賊漁の様子を天覧遊ばされての玉詠でありませう。
 両陛下の此の日の御動静は富山大学から始まり庄川の紡績工場、新湊の放生津保育園、高岡市の化学工場、伏木港と御視察を重ね給ひ、行在所にお入りの後も高岡高校生物クラブの収集した中部日本海岸産の後鰓類の標本を天覧遊ばされました。
 越中路に、漁火(いさりび)を詠ませ給ふ御製には自づから万葉の古歌が思はれます。その古歌の舞台は「能登の海」ですが、「有磯の海」と距離的にも、さう違はないでせうから。
   万葉集巻第十二。詠み人知らず(澤瀉久孝著『万葉集注釈』より)
    能登の海に釣する海人(あま)の漁火の光にい行け月待ちがてり
     口訳―能登の海に釣をする海人の漁火の光に照されてお行きなさい。月の出を待ちながら。
 暗い夜の海に、数多の漁火が連なる様は本当に明るいものです。万葉の古(いにしへ)と昭和の御代とでは熱源も違へば明るさも勿論段違ひではありませうが「漁火の光に照されてお行きなさい」と歌はれる如く、夫々の時代なりに其の明るさは強(あなが)ち誇張とも言へないくらゐなのです。天皇様は能登に近い氷見の漁火を天覧遊ばされて、この万葉の古歌に思ひを馳せ給ひしにやと、恐れながら拝察申し上げる次第です。
 なほ、昭和六十年に鳥取県での国民体育大会の御砌にも「米子市にて」の御題にて「漁火」を詠み給ひました。
   あまたなるいか釣り舟の漁火は夜のうなばらにかがやきて見ゆ
 御製の総てが公表される訳ではありませんが、少なくとも公表されてゐる昭和天皇御製の中で「漁火」を詠み給ひしは「氷見の宿」と「米子市にて」の二首だけであらうと思はれます。

七月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年七月一日)

   紅(くれなゐ)に染め始めたる山あひを
        流るる水の清くもあるかな

 
 此の御製には「宇奈月の宿より黒部川を望む」との詞書(ことばがき)(和歌で、その歌を詠んだ日時や背景等を記した前書)があるやうに、昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、十月二十日の行在所となつた宇奈月温泉の宿よりの絶景を詠ませ給ひし御製です。後述の如く、宇奈月御到着は夕刻でしたので、お詠みになられたのは翌二十一日の朝のことであらうと拝察されるのです。
 折柄宇奈月の山々は錦秋(きんしう)(紅葉が錦を織り成したやうに色鮮やか)も愈々始まらうかといふ季節。お召車は奉迎の旗の波を縫ふやうに進み、午後四時三十五分温泉郷の行在所に入り、両陛下の御安着を告げる花火が町民の感激と喜びそのままに黒部の清流の両岸に谺(こだま)しました。
 午後七時半、行在所の対岸では奉迎の花火が始まりました。星空をあざむくばかりに尺玉が入り乱れて花開き、川面には「奉迎」等々の仕掛け花火が清流に煌(きら)めき、その頃、町民千五百人余の奉迎提灯行列も行はれ、ブラスバンドを先立てて行在所に到着。両陛下はバルコニーに御出ましになり、町民の真心溢れる奉迎に応へ給うたのです。
 信越国境鷲(わし)羽(ば)岳(だけ)(標高二千九百二十四メートル)に源を発する黒部川は、流路凡そ八十五キロの八割が深山幽谷にあります。為に、その高低差と豊富な水量とを利用して「黒四」に代表されるダムが多く設けられてゐます。素より水質は清らかで、下流に至つても名水百選の一つに数へられる「黒部川湧水群」があるくらゐで、玉詠に「流るる水の清くもあるかな」と詠ませ給ひし所以でせう。
 昭和三十八年に宇奈月温泉は開湯四十周年を迎へました。これを記念して、宇奈月公園の一角に、この昭和三十三年の行幸の御砌に詠ませ給ひし御製を刻んだ御製碑が建立されたのです。

六月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年六月一日)

 たくみらも営む人もたすけあひて
      さかゆくすがたたのもしとみる

 「黒部の工場」と題された此の御製は、昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、当時の吉田工業株式会社(YKK)黒部工場、今の牧野工場を御視察され、その御感懐を詠み給ひし御製です。
 戦時中の反動もあつてか、昭和二、三十年代の頃には殊更資本家、労働者を峻別し、前者を悪玉、後者を善玉と単純とも言ふべき色分けをして、徒に反目を煽る風潮がありました。そんな社会の中に在つても、同じ日本人同士として経営者、労働者夫々の立場、特質を活かし合ひ協力し合つて、戦争で疲弊した祖国の再建に貢献し、企業も繁栄し自分達も幸せにならうと、地道に共々に頭脳を絞り額に汗する人達も大勢ゐました。YKKも経営者、従業員一体となり自社の儲けのみを追求するのではなく、もつと高い次元の「世の為、人の為」を考へる経営を実践してゐました。
 天皇様は「大東亜戦争終結の詔書」の一節に「宜シク、挙国一家、子孫相伝ヘ、確(かた)ク神州ノ不滅を信ジ、任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ、総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤(あつ)クシ、志操ヲ鞏(かた)クシ、誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ後(おく)レサラムコトヲ期スヘシ。」(意訳―国中が一つの家族として、子孫にも伝へ、神々の国日本は絶対に滅びない事を確りと信じて、持てる力の総てを将来の国造りに傾け、倫理道徳を大切にし、嘘偽りや浮ついた心に流れる事無く、必ずや、純粋で麗しい日本の国柄を振ひ起こし、日に日に進み行く世界の動きに後れをとらないやうにしなければなりません。)と国民をお諭しになられました。大多数の国民は、このやうな大御心(天皇様の尊いお考へ)にお応へ申し上げるべく、戦後の復興に奮励努力を重ねて来たのでした。
 YKKには牧野工場、黒部工場双方に此の御製碑が建立されてゐます。牧野工場の御製碑は行幸啓記念に建立され、その碑文の一節に「創業以来二十五年、真に労使渾然一体となって進んで来た当社の姿がそのまゝ御製の御心と拝され、全員いよいよ和衷協力、相扶け相励まし、我が国経済の発展と輸出の振興に努めるとともに、広く工場の海外進出を図り、日本民族の繁栄、人類の福祉に貢献せん」とあり、創業五十周年記念に黒部工場に建立された御製碑の碑文には「社員一同」の名を以て同様の趣旨が書かれてゐます。
 「大東亜戦争終結の詔書」には「(朕ハ)常ニ爾臣民ト共ニ在リ」の一節もあります。天皇様は昭和二十四年五月二十九日九州御巡幸の御砌、作業服をお召しになり三池炭鉱の地底千五百㍍、最前線の切羽に粉塵をものともせず玉歩を運ばせ給ひ御視察、その帰途には職員組合長、労働組合長にも慰労、激励の御言葉を賜りました。この富山県行幸啓の御砌にも御視察遊ばされたYKK始め各工場、事業所では必ず労働組合の代表者にも御言葉を賜つたのでした。正に御身を以て「終戦の詔勅」を実践してをられたのです。

五月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年五月十二日)

御ほとけにつかふる尼のはぐくみに
        たのしく遊ぶ子らの花園


昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、当時の社会福祉法人「ルンビニ園」に行幸啓遊ばされた折の御製です。「ルンビニ園」は戦後、戦災孤児を収容し、親代りに養育せんとの慈悲心から、当地(当時は上新川郡婦南村。今は富山市中布目)の霊眼寺住職谷口節道禅尼が創設した施設ですが、其の後種々の家庭の事情に依り、養育不能の子供達をも収容するやうになりました。「ルンビニ」とはネパール南部タラーイ地方の地名で仏様の御誕生地と言ひ伝へられてゐる所です。
 皇室では御歴代に亘り、老人や子供、中でも、幸(さち)薄い国民には殊に慈愛の御目を注いでをられますが、昭和天皇は「ルンビニ園」にはこの時までに既に九回御下賜金を下されてをられました。
 両陛下は谷口園長の「戦災孤児のお母さんになりたいと思ひ、お寺を開放したのが何時の間にか一般の孤児も収容するやうになりました」「周囲の暖かい援助で子供達は幸せを取り戻したやうです」等々の御報告に深く感動し給ひ、天皇様は「これからも一所懸命努力して、可哀想な子供達を助け、立派な社会事業をするやうに」との御言葉を賜りました。そして、遊戯をしたり絵本を見たりしてゐる子供達を御覧遊ばして、施設内をお回りなつて、二階の中学生、高校生の所へお回りの為、階段を昇られた時に、皇后様に「お母さん」と呼び掛けた子がゐました。それは父は亡くなり、母は病気といふ寂しい環境に育つた七歳の子でした。皇后様は微笑み給ひ、二、三段昇りかけた階段を降りて、慈愛に満ちた眼差しでその子を見つめられたのですが、それは正に「国母(こくぼ)陛下―国民全体の母親であらせられる皇后陛下」の尊くもお優しいお姿でありました。そして、中学生、高校生には、天皇様は「勉強して立派な人になるやうに」、皇后様は「体を大事に」と励まされたのです。
 皇后様(香淳皇后)は昭和三十一年に「福祉事業」の御題にて「母とよびわれによりくる幼な子のさちをいのりてかしらなでやる」とお詠み遊ばされました。皇后様は正に「国母陛下」にあらせられるのです。
 なほ、ルンビニ園ではこの行幸啓を永く記念すべく、翌三十四年浄財を仰いで行幸啓記念館を建設し、更に御製碑を建立しました。当時の侍従入江相政氏揮毫のルンビニ園の御製碑には「みほとけにつかふる尼のはくくみにたのしく遊ふ子らの花その」と刻まれてゐます。

富山縣護國神社
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