富山縣護國神社
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一月の御製板を奉掲致しました。(平成二十年一月十日)

立山の空にそびゆるをゝしさに
       ならへとぞ思ふみ代のすがたも


大正十年、天皇様の御不例(天皇様の御病気)に依り、皇太子様(後の昭和天皇)が摂政(天皇様の代理)に御就任遊ばされました。大日本帝国憲法第十一条の定めでは、陸海軍(当時は空軍はありませんでした)は大元帥である天皇様の統帥の下に在り「皇軍」と称されてゐました。大正十三年秋、陸軍大演習が富山石川の地に於て行はれ、これが統監の為に摂政宮様は当地に行啓遊ばされました。そして十一月三日時恰も明治天皇御誕生日(今の「文化の日」。昭和二年から同二十三年の間は「明治節」)の佳き日。西砺波郡埴生村(現小矢部市)に立たれた摂政宮様は、快晴の秋空の下、白銀にきらめく立山連峰の雄大なる山容に感嘆これ久しうし給ひ、翌大正十四年の歌会始の折「山色連天(山色天に連なる)」の勅題(天皇様がお出しになる、歌の御題)にて此の一首をお詠みになられたのでした。この御歌を拝した富山県民の感激はただならず、県民一致してこの御歌の碑を建立する事となりました。その碑に最も相応しい場所、雄山の頂上直下、三の越の巨大な自然石にこの御歌を謹刻する為、その謹書を侍従長入江為守子爵に依頼しました。峻険なる岩場での期間も短く限られた難工事、その困難を克服して大正十五年夏、竣功を見るに至りました。此の年の十二月二十五日大正天皇は崩御、摂政宮が践祚(せんそ)(先帝崩御の後、直ちに新帝が御位を継がれること)し給ひ「昭和」と改元されました。
 三の越の此の碑の標題は「東宮御歌」とされてゐます。たとへ東宮時代の御歌でも御即位後は「御製」と申し上げるのですが、「東宮御歌」とあるのは、お詠みになつたのも、碑の工事に着工したのも昭和天皇がまだ東宮の御時であつたからなのです。その上、見逃してはならないのは「み代」の持つ意味です。天皇として詠まれた場合は「わが世」或は「世」とされてゐます(一例‐昭和八年の御製「あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」)。つまり「立山の御歌」は東宮として摂政宮として、御父君大正天皇の御治世を称へ奉つて、敬語である「み(御)」をお付けになつたのです。大正から昭和への御代替りと言ふ歴史の重大な節目を雄弁に物語つてゐるのが、此の三の越の「東宮御歌」の碑なのです。そして「立山の御歌」は岡野貞一に依り謹作曲がなされ富山県民歌となり、式典等事ある毎に国歌と共に斉唱されて来ました。
 昭和天皇の御製碑は全国に凡そ百四十基建立されてゐます。実はその中の一割、十四基もの昭和天皇の御製碑が我が富山県内に建立され、その中の四基が「立山の御歌」の碑となつてゐます。富山県民歌と言ひ、最多の御製碑と言ひ、数ある昭和天皇御製の中でも、富山県民の此の御製に対する思ひが如何に特別に深いかがよく分ります。

富山縣護國神社
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