富山縣護國神社
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沖縄慰靈祭鹿児島知覧研修旅行に参加して①(平成28年3月17日 )

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 二月二十二日から二十五日にかけて開催された神政連富山県本部主催の「終戰七十周年記念沖縄慰靈祭・鹿児島知覧研修旅行」に、當神社より禰宜、大峯・二宮両権禰宜の三名が参加し、國のために散華された御英靈をはじめ、沖縄戰で亡くなられた多くのみたまに対し、慰靈のまことを捧げました。
 この慰靈研修旅行では、沖縄縣の摩文仁の丘にある富山縣の慰靈塔「立山の塔」にて慰靈祭を齋行、激戰地となつた沖縄本島南部方面を當時の戰況を振り返りつつ戰跡を辿り、鹿児島縣では、海軍・陸軍の特攻基地となつた鹿屋航空基地資料館・知覧特攻平和会館を拝観、富山縣出身の御英靈と関はり深い話にふれつつ、御英靈に感謝と慰靈顕彰の祈りを捧げ奉り、そして沖縄縣護國神社・鹿児島縣護國神社をはじめ六社の神社へ参拜しました。
 どこの場所でも感慨深く涙が渇くことがないのでありましたが、先づはじめに「白梅学徒看護隊(白梅隊)」と富山県西砺波郡石動町(現小矢部市)出身の安井二郎少佐(陸軍軍医中佐・六月二十二日戰死)のことについて申上げます。
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『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』(白梅同窓会編集)から掲載
 「白梅学徒看護隊」とは、昭和二十年三月六日から六月四日まで、学徒勤労動員令によつて第二十四師団第一野戰病院(符号・山三四八六安井隊)の従軍補助看護婦となりました、沖縄県立第二高等女学校の四年生、五十六名編成の学徒隊のことであり、従軍先の病院長(隊長)が安井二郎軍医少佐で、安井隊の部隊は富山県出身者五十名を含む百八十六名で編成されてをりました。平成十二年五月一日に刊行された『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』(白梅同窓会編集)によれば、山第一野戰病院本部は東風平(こちんだ)村(現在の東風平町)の八重瀬岳中腹にありましたが、戰況の悪化により六月四日、高嶺村(現在の糸満市)国吉への撤退を決行。安井隊長は、威厳のある静かな口調で、「戰局はもはや病院管理ができる状態ではない。米軍は二~三日後にはここまで来る。これより衛生兵はもちろん、動ける患者全ての者が戰闘員となつて敵陣に突入する。学徒隊は今日までよく働いてくれた。自分は今、国家に代つて礼を言ふ。」と学徒看護隊員に解散命令を下し、「最後まで一緒に戰はせて下さい」との訴へも軍命が覆ることはなく、患者の兵隊を原隊へ戻す最後の任務を務めてから壕を脱出。山第一野戰病院は国吉の通称ウテル原に撤退。後日国吉付近を逃げ惑つてゐた白梅隊員十六名が再び迎へられて勤務に就きましたが、六月二十一日から二十二日にかけて、国吉台地は米軍の猛攻撃に曝され山第一野戰病院は壊滅。「第二十四師団第一野戰病院行動表」には「六月二十二日・部隊長以下玉砕」と記されてゐます。
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昭和20年6月4日までの野戦病院本部壕跡(八重瀬岳中腹)
 戰争が終つて二年後の昭和二十二年一月、国吉の丘に、白梅関係者を祀る小さな「碑」が建てられ、第一回慰靈祭が齋行されました。その後昭和二十六年に山第一野戰病院の国吉の壕跡が確認され、現在の地に「白梅の塔」が建立されましたが、平成四年に建て替へられ、六月二十三日に「白梅の塔」新塔と納骨所の除幕式が第四十六回慰靈祭に合せて執り行はれてをります。
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「白梅の塔」と野戦病院壕跡(糸満市国吉)
 當神社の三名は、安井二郎病院長以下、多くの白梅隊員も玉砕された場所に建つ「白梅の塔」にて、宮司の和歌『白梅の香りをきけば沖縄の第二高女の子等を偲びぬ』を禰宜が献詠し、一同で黙祷、静かにみたまをお慰め申上げ、重ねて勲(いさをし)を謹んで顕彰申上げました。
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富山縣護國神社
富山県富山市磯部町1-1 TEL:076-421-6957 FAX:076-421-6965

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