昭和天皇御製板
平成19年 12月 1日
十二月の御製板を奉掲致しました。
はてもなき礪波のひろ野杉むらに
とりかこまるる家々の見ゆ
昭和四十四年五月二十六日頼成山の植樹祭にてお手植ゑの後、両陛下は城端の縄ヶ池の水芭蕉群生地に御成り、散策遊ばされた事は「みづばせを」の御製の解説にある通りですが、昭和四十六年五月に建立された此の「はてもなき」の御製碑に刻まれた御製も亦その途次に詠み給ひし御製です。此の御製を刻んだ特異な形の御製碑は縄ヶ池の手前、約一里(四キロメートル)の見晴しの好い林道の脇に建立されてゐます。その碑文には〔天皇陛下には、昭和四十四年全国植樹祭のため本県下行幸のおり、この地からご展望になった散居村が深くお心にとまり、今春歌会始めの儀に、お題「家」にちなんでその風情をお詠みになった。これを記念にきざむ。〕とあります。
「散居村」と言ふのは読んで字の如く「散らばつて居住する村」のことです。農家は夫々自分の家の周囲の農地を耕作してゐる為、碁石を散らしたやうに隣家が遠くに在る村落形態となつてゐて、夫々の家は雪や風や暑さから家を守る為の屋敷林(「カイニョ」と言はれる)に囲まれてゐます。このやうな村落形態となつた要因として、代表的な散居村として知られる砺波市の広報に依りますと「砺波平野は主に庄川の作った扇状地です。かつて、庄川扇状地の未開拓地を開くにあたっては、微高地の耕土の厚いところを選んで住居を定め、その周囲を開いていきました。その場合、水の豊かな扇状地のため、どこでも容易に水を引くことができ、地形的な制約というものがそこにはありませんでした。そのため、家々は散らばり、それぞれの周囲を耕作するようにな」つたと言ふことです。又「散居村」のやうな形態は「出雲の斐川平野、静岡県の大井川扇状地、北海道の十勝平野など、富山県内でも、黒部川や常願寺川などの扇状地の一部」にも見られるものの、その規模は砺波平野(散居村地帯の広さ約二百二十平方キロ、戸数約七千戸)が最も典型的である由です。なほ、外国では米国やカナダにも似たやうな例が有るさうです。
なほ、この日の行在所は高岡市雨晴の海沿ひのホテルでしたが、皇后様は「富山にて」の御題にて「北国の海よりいづる日のひかり力づよくもかがやきわたる」とお詠みになられました。
我等の郷土富山県に於て、この植樹祭に行幸啓の御砌、天皇様には秀麗なる陸の眺望を、皇后様には雄大なる海の景観を三十一文字に詠み給うたのですが、この栄誉を忘れること無く、これからも県民協力一致して麗しい郷土を守つて行きたいものです。