昭和天皇御製板
平成20年 3月 1日
三月の御製板を奉掲致しました。
高だかとみねみね青く大空に
そびえ立つ見ゆけふの朝けに
昭和三十三年十月、両陛下は国民体育大会に行幸啓遊ばされましたが、その御砌初日(十八日)と二日目(十九日)には富山市の電気ビルホテルが行在所となりました。
この御製には「立山連峰」の御題がつけられてゐますが、恐らく二日目(十九日)の朝に電気ビルホテルのお部屋より遠く立山連峰を望み、詠み給ひし御製でありませう。この日は日中には暫らく小雨も降つたやうですが、朝は「天皇晴れ」の上天気でした。大正十三年御成りの節は十一月で、当時は初めての御来県であり、新雪の白銀に耀(かがよ)ふ立山は一際御印象深くあらせられた事と拝察される次第です。二度目に当る戦後の御巡幸の御砌には立山を詠み給ひし御製は拝されなかつたやうですが、三度目の此の度は時季的には初回より二週間近く早く、冠雪は見られたでせうが、白銀に耀ふといふ程ではなかつたものと拝察されます。立山は春夏秋冬、朝昼夕と、夫々に時々刻々と変化しつつ雄大秀麗、観る者をして感嘆措く能はざらしめる、正に霊峰です。初回は摂政宮としての陸軍大演習統監、二度目以降は天皇として、国史未曾有の終戦間も無くの頃、そして今回は戦災から立ち直つた富山市内外の様子。夫々の御砌に、大空に聳え立つ立山連峰の雄姿を天覧遊ばしたのです。
なほ、この十九日には国民体育大会秋季大会開会式に臨御されましたが、その後の天覧、御視察の途次、此処富山縣護國神社にもお立ち寄りに相成り、昇殿の御親拝こそありませんでしたが、鳥居の内にて御拝礼、別途に神饌料御下賜の栄にも浴しました。
この夜、富山市児童クラブ協議会の児童、父兄を中心に「奉祝提灯行列」が行はれ、電気ビルホテル周辺は二万人余の市民が手に手に提灯を捧げ歓呼の声をあげて行進、沿道にも国民体育大会の選手や市民、県民数万人が溢れ出て熱狂的な奉祝奉迎風景が繰り広げられました。午後八時行列の先頭が電気ビルホテルにさしかかるや、両陛下は提灯を御手に四階バルコニーに御出まし、提灯を右に左に大きく振つてお応へ賜つたのです。お疲れの両陛下に配慮した宮内庁は当初御出ましは十五分間だけとしてゐましたが、両陛下は行列の最後尾が着く迄、四十二分間バルコニーにお立ち遊ばして、最後に湧き上がつた天皇陛下万歳の大歓声にご満足げに大きくお応へあつて、漸くお部屋にお入りになられたのでした。予定時間を大きく超えて御出まし戴いた事に恐(きょう)懼(く)(おそれ、かしこまる)した富川富山市長は、翌朝電気ビルに赴き侍従を通じて昨夜の長時間の御迷惑のお詫びを言上しました。処が、天皇様は却つて、疲れるどころか、老若男女を問はぬ熱誠籠る歓迎を嬉しく思ふ旨の御言葉を伝へ給うたのでした。
雄大秀麗なる霊峰立山、市民県民の心からなる奉迎、そして逞しく復興した町並。これらがどれ程大御心を安んじ奉つた事でせうか。