平成20年 4月 6日

四月の御製板を奉掲致しました。

  県庁の屋上にしてこの町の
        立ちなほりたる姿をぞ見る
  

 大東亜戦争も終局の様相を濃くしてゐた昭和二十年八月二日未明、富山市はアメリカ空軍爆撃機百数十機による空襲を受けました。一般市民の居住地に対するこのやうな爆撃は明らかなる戦時国際法違反の暴挙でした。併しアメリカは日本全国の都市に対してこの暴挙を繰返してゐたのです。
 この空襲は生半可なものではありませんでした。広島、長崎への原爆投下を除けば地方都市への空襲としては最も大規模なもので、被災人口は十一万人に近く、その内死者は二千七百人余、負傷者約八千人、そして大小約二万五千のビルや家屋が焼き払はれ、僅かに被災を免れたのは主な建物としては富山県庁や大和百貨店、NHK等だけでした。そして死者の遺体は雨晴の浜の辺りにまで流れ着いたのです。
 天皇様はこれら惨禍を蒙つた国民に深く思ひを致され戦前の二十年三月十八日には都内の被災地を視察されました。そして戦後昭和二十一年二月、神奈川県の川崎、横浜両市の被災地を訪ねられたのを皮切りに、愈々全国を訪ね、敗戦の痛手に苦しむ国民を、御親(おんみづか)ら慰問、激励しようと御決意遊ばされたのでした。かうして昭和二十九年の北海道を最後に、当時も猶アメリカの占領下にあつた沖縄を除く千四百十一箇所、総行程三万三千キロに及ぶ御巡幸を果たされたのです。この天皇様の尊い大御心と、これに応(こた)へ奉(たてま)つらんとする国民の真心、これこそが正に日本の戦後復興の原点、原動力であつたのです。
 富山県への御巡幸は昭和二十二年十月三十日、お召列車は石川県から倶利伽羅トンネルを越えて高岡へ、そしてオープンカーにて富山市へ。会場の神通中学校では五万人の市民が奉迎、一同「立山の空にそびゆる雄々しさに」と熱唱、感涙に咽びつつ万歳を叫んだのでした。そしてその折、焼け残つてゐた富山県庁を行(あん)在所(ざいしょ)(天皇の仮のお宿)とされたのです。富山県内御巡幸の三日目十一月一日、細入村にて立山杉をお手植ゑ(これが後の全国植樹祭の原点となつた。)、この夜、県民による奉迎夜会が県庁前広場にて挙行され、麦屋節、をはら節等の郷土芸能を始め、県民挙げてあらん限りの至誠を以て奉迎申し上げました。陛下は行在所の窓を開け放つて数々の奉迎の様子を天覧(天皇が御覧遊ばすこと)、最後は国歌「君が代」の大合唱、尾山富山市長が万歳三唱の音頭をとつた時、天皇が御出ましになり県民の熱誠にお応へになりました。この御出ましに感激した市長は土下座、知事と相擁して号泣したのでした。
 この御製は昭和三十三年国民体育大会に行幸の御砌に、県庁屋上より、昭和二十二年の御巡幸の時とは打つて変つた富山市内の力強い復興の様を天覧遊ばしての、お喜びの「国見(くにみ)」(高い所から其の地の情勢を見給ふ)の御製なのです。