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令和7年 8月 23日
大東亜戰爭終戰八十周年「立山の塔慰靈顕彰祭竝に沖縄慰靈の旅」
大東亜戰爭で唯一地上戰が行はれた沖縄県。その沖縄本島南部の果て、平和記念公園内にある沖縄戰終焉の地「摩文仁の丘」には全國各県ごとの慰靈碑が建立されてゐます。その富山県の慰靈碑である「立山の塔」にて、富山県出身戰歿英靈二万八千六百八十二柱すべてに慰靈顕彰と感謝のまことを捧げるべく、大東亜戰爭終戰八十周年記念事業として「立山の塔慰靈顕彰祭竝に沖縄慰靈の旅」を七月九日より十一日までの二泊三日の日程にて開催。田林修一崇敬総代副会長を団長とし総勢十五名にて実施致しました。
當初、発生してゐた台風の影響が心配されてゐましたが、當日は天候にも恵まれ、無事に富山空港より那覇空港に到着することができました。
先づ、大型バスに乗車し旧官幣小社である波上宮に向かひました。境内は國内外の観光客で賑はつてをり、御社殿や境内には琉球特有の情緒が漂つてゐました。波上宮では大山晋吾宮司様を始め職員の皆様のお出迎へをいただき、正式参拜を致しました。参拜後、沖縄県神社庁長でもある大山晋吾宮司様よりご挨拶をいただきました。その中で終戰八十周年に當り、六月四日・五日に沖縄県に行幸啓遊ばされました天皇皇后両陛下・愛子内親王殿下の御奉迎の様子をお話いただきましたが、ご宿泊先のホテル前には、降つて湧いたやうに凡そ五千人が集ひ、日の丸の小旗と白提灯で御奉迎されたとのことでありました。それは天皇陛下の沖縄に対する特別な思し召しが、沖縄県民に伝はつてゐるといふことではないでせうか。
その後、御社殿裏に移動し、波の上の崖端が海の彼方の海神の國(ニライカナイ)の神々に、豊穣や平穏を祈つてゐた聖地であつたと、神社の起源についてもご説明いただきました。
その後、摩文仁の丘に聳へ立つ「立山の塔」に向かひました。すると、慰靈碑の前に沖縄県神社庁様からの献花が一基お供へされてゐました。神社庁長でもある波上宮の大山宮司様は、以前靖國神社でご奉仕されてをられ、この終戰八十周年に対し殊更特別な想ひを寄せていただいてゐると感じました。
祭典が始まり、先づ一同で國歌齊唱。次に、立山の塔を神籬と見立て富山県出身戰歿英靈二万八千六百八十二柱をお招きし、林名誉禰宜が祝詞を奏上申上げ、富山県出身戰歿英靈すべての御靈に慰靈顕彰と感謝のまことを捧げました。次に、神楽「いでたちの舞」を奉奏。「いでたちの舞」は、昭和二十年五月十三日、飛行第二十戰隊陸軍伍長として台湾宜蘭基地を出撃、沖縄本島西海岸に群がる米艦船に体當たり、特攻戰死された高田豊志命が、「お母さま」にのこされた「夢にだに 忘れぬ母の 涙をば いだきて三途の 橋をわたらむ」といふ和歌に、平成七年の終戰五十周年に宮司が補作、牧田明子翁雅楽会長により、曲と舞が創作されたものであります。この歌は、富山縣護國神社にお祀りされてゐる二万八千六百八十二柱の英靈すべてのこころをあらはしてゐるとの思ひから、「いでたちの舞」の元歌となつてゐます。齋主玉串拜禮の後、田林団長に合はせ一同拜禮。その後、富山県民の歌である「立山の御歌」を声高らかに奉唱致しました。海からの風は強いものの、心配してゐた天候にも恵まれ、祭典も滞りなく終了致しました。
高田豊志命が特攻戰死された沖縄の海を遥かに臨みながら、終戰八十周年の節目に、この沖縄の地にて「いでたちの舞」が奉奏されたことに、特別な因縁を感じました。
その後、参加者一同は牛島満司令官及び長勇参謀長が自決された摩文仁司令部豪跡まで移動し「黎明之塔」にて黙祷を捧げました。
二日目、先づ沖縄縣護國神社にて正式参拜。参拜後、西谷禰宜様よりご挨拶をいただきました。神社の由緒に続き御祭神について、日淸日露戰爭以降、大東亜戰爭で戰歿された沖縄県出身の軍人軍属は勿論、沖縄戰にて散華された一般住民の御靈、また那覇空襲や対馬丸事件での犠牲者、さらに富山県出身の御靈六三二柱を含む北海道から鹿児島までの本土出身軍人軍属で、沖縄戰で戰歿された御靈等も合はせてお祀りされてゐるとのことでした。このやうな形で合祀されてゐるといふことは、本土防衛に非常に重要であつた沖縄において、軍属一般人、また出身地関係なく共に心一つに戰つたといふ、紛れもない証ではないかと感じました。その後、関口権禰宜様から境内の御製碑等のご説明をいただき、神社を後にしました。
尚、この日は、全國の旧内務省指定護國神社五十二社の宮司は終戰八十周年に當り、畏くも天皇陛下より幣帛を御下賜される「班幣式」が靖國神社において行はれることとなり、沖縄縣護國神社加治順人宮司様、當社栂野宮司も上京してをりました。
次に、世界文化遺産でもある「齋場御嶽」(せーふぁうたき)に向かひました。「御嶽」とは南西諸島に広く分布してゐる聖地の総称で、この「齋場御嶽」は琉球開闢伝説にもあらはれる、琉球王國最高の聖地です。中には六つのイビ(神域)があり、琉球國王はこの六ヶ所を参拜しながら國家繁栄・五穀豊穣・航海安全等を神に祈願したとされてゐます。そのやうな聖地であつても、戰時中の艦砲射撃等の傷跡が所々に見受けられました。
次に、全長二百七十メートルの自然洞窟(ガマ)である「糸数アブチラガマ」に向かひました。沖縄戰では、日本軍の作戰陣地や南風原陸軍病院の糸数分室となりましたが、戰爭が激しくなると軍民同居の状態となつて米軍の標的となり、多くの命が失はれることとなりました。
事前の説明では、内部に釜戸や井戸等があり、他のガマよりは恵まれた環境であつたとのことでしたが、釜戸を使ふと空気穴から煙が上がり、米軍の標的となり数回しか使はれることはなかつたといふこと。また、井戸にはガマ内部を流れる小川から水が来てゐましたが、戰況が悪化するにつれ血や汚物を流すことで、井戸の状態も非常に悪くなつてゐたとのことでありました。今回、ガマ内部に入ることはありませんでしたが、入り口付近にて一同で黙祷を捧げました。また、傍には「大東亜戰爭沖縄戰線戰歿者の墓」と刻まれた慰靈碑も立つてをり、普段から慰靈の方が絶へない様子が伺へました。
それから八重瀬町に移動し、第二十四師団第一野戰病院豪跡を訪れました。病院長は、富山県西砺波郡石動町(現小矢部市)出身の安井二郎少佐でありました。第一野戰病院は、丘を東西に長く南北を奥行にして、格子状に人工的に掘り込まれた壕で、患者収容可能数約五百人。病院の陣容は安井二郎軍医少佐以下、軍医・衛生兵・陸軍看護婦など百九十三名、それに五十六名の学徒補助看護婦で構成されました。後に地上戰の激化に伴ひ、数限りない負傷者の手當がなされました。
その後、「白梅の塔」に向かひました。この塔は沖縄県立第二高等女学校の沖縄戰戰歿者を祀る慰靈塔で、戰爭が原因で亡くなられた教職員・同窓生、計百四十九柱が合祀されてゐます。また、「白梅」とは沖縄県立第二高等女学校の校章が白梅であることから名前が付けられてゐます。
武器を持たずして懸命に戰つた少女たちの眠る「白梅の塔」。一同、殊更心静かに黙祷を捧げてゐました。
続いて向かつたのは、異國情緒溢れる琉球王國の栄華を物語る世界遺産「首里城」です。十四世紀頃に創建されたといはれ、日本や大陸からの文化も混合する琉球独特の木造建築の城でしたが、令和元年十月三十一日に発生した火災にて正殿を含む九つの施設が焼失し、現在は復元工事の真つ最中でした。この復元工事には富山県南砺市の井波彫刻の技術も生かされてをり、令和八年に工事完了を迎へます。
二日目の行程を終へ、バスでホテルに向かふ途中、沖縄戰の激戰地である安里五二高地(シュガーローフ)付近を通りました。
安里五二高地は米國第六海兵師団を十日間釘付けにした標高五十二メートルの小高い丘で、米兵から地獄のシュガーローフと形容された場所であります。この地の守備を担當した独立混成第十五連隊には富山県の部隊も編入されてゐました。尚、現在この地は那覇市水道局の管理地となり頂上には水道タンクがあり、周辺には商業施設などが作られてゐます。ここが沖縄戰における激戰の地であつた名残りは車窓から確認することは出来ませんでしたが、決死の銃剣突撃により米兵達を戰慄させた日本軍将兵たちの悲壮な姿を思ふと、この場所で多くの英靈が尊き命を捧げられたことを強く記憶にとどめなければなりません。
最終日、対馬丸事件を伝へる「対馬丸記念館」を訪れました。「対馬丸事件」とは大東亜戰爭中の昭和十九年八月二十一日、疎開船として民間人や児童ら計約千七百名を乗せ那覇港から長崎へ向け出港した対馬丸が、途中八月二十二日にアメリカ軍の潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受け鹿児島県悪石島付近で沈没し、大きな犠牲を出した非常に悲しい事件であります。
館内で対馬丸事件の映像を観た後、展示物に目を遣ると、亡くなつた幼い子供たちの写真が目に飛び込んできました。「まだ生きたかつた」と悲しくこちらを見てゐるやうでした。皮肉にも我が子の無事を願ひ疎開船に乗せたその親心を思ふと、後悔の念に駆られたことは、察するに余りあることはいふまでもなく、胸が詰まる思ひでした。
また記念館の近くには、犠牲になられた方々の慰靈碑「小桜の塔」も建立されてゐます。先の行幸啓の折、天皇皇后両陛下・敬宮内親王殿下が献花されました。
対馬丸記念館見学後、全行程を終了し参加者一同無事に帰路に着きました。
本年は終戰八十周年を迎へましたが十年、二十年、三十年前と比較しても、我が國日本は未だ戰後の呪縛解き放たれず、聞こえのよい虚偽の自由に騙されながら、何も変はつていないやうに思へてなりません。御靈がどのやうな思ひで殉じられたか、その御心を拜しますと、この大東亜戰爭終戰八十周年を必ず日本の精神、自主独立を取り返す契機としなければと、強く感じた旅となりました。
終はりに、ご参加頂きました皆様、ご案内ご協力賜はりました皆様にあらためて感謝申上げます。