富山縣護國神社
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平成19年
初詣に向けて(平成十九年十二月十二日)

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お正月に向けた神社の行事の一つである「みたまわけ大祭」を十二月一日に齋行しました。
「みたまわけ大祭」とは、奉製されたおふだ・お守り・熊手などの縁起物に神霊(しんれい)を込める祭典です。宮司が祝詞を奏上し、次にお守り・縁起物等を祓ひ清めた後、覆面と手袋を身に付け神霊を込める「みたまわけの儀」を行ひました。

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 また、十二月八日の開戰記念日には、大東亜戰争開戰詔書奉戴記念祭を齋行し、引続き御神宝である宝刀の手入式を齋行しました。

今後の行事としましては、二十三日に天長祭を齋行。午後より正月奉仕巫女「福ひめ」認証式や絵馬焼納祈願祭、すす祓ひ、三十一日には、大祓、除夜祭等の行事を齋行いたします。
一年で最も大事且つ神聖な日であるお正月に向けて、万全の体制でお迎へ出来ますやうに整へ、皆様をお待ち申し上げます。  

遺芳録のページに宮林金吾命・眞野敏弘命を掲載いたしました。(平成十九年十二月一日)

宮林金吾命
昭和十九年九月十九日
   トラツク群島にて戦死
射水郡大島町出身
http://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2007/12/post_5.html
 
 
眞野敏弘命
昭和二十年五月二十五日
   沖縄方面にて戦死
富山市中老田出身
http://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2007/12/post_6.html

十二月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年十二月一日)

はてもなき礪波のひろ野杉むらに
         とりかこまるる家々の見ゆ

 昭和四十四年五月二十六日頼成山の植樹祭にてお手植ゑの後、両陛下は城端の縄ヶ池の水芭蕉群生地に御成り、散策遊ばされた事は「みづばせを」の御製の解説にある通りですが、昭和四十六年五月に建立された此の「はてもなき」の御製碑に刻まれた御製も亦その途次に詠み給ひし御製です。此の御製を刻んだ特異な形の御製碑は縄ヶ池の手前、約一里(四キロメートル)の見晴しの好い林道の脇に建立されてゐます。その碑文には〔天皇陛下には、昭和四十四年全国植樹祭のため本県下行幸のおり、この地からご展望になった散居村が深くお心にとまり、今春歌会始めの儀に、お題「家」にちなんでその風情をお詠みになった。これを記念にきざむ。〕とあります。
 「散居村」と言ふのは読んで字の如く「散らばつて居住する村」のことです。農家は夫々自分の家の周囲の農地を耕作してゐる為、碁石を散らしたやうに隣家が遠くに在る村落形態となつてゐて、夫々の家は雪や風や暑さから家を守る為の屋敷林(「カイニョ」と言はれる)に囲まれてゐます。このやうな村落形態となつた要因として、代表的な散居村として知られる砺波市の広報に依りますと「砺波平野は主に庄川の作った扇状地です。かつて、庄川扇状地の未開拓地を開くにあたっては、微高地の耕土の厚いところを選んで住居を定め、その周囲を開いていきました。その場合、水の豊かな扇状地のため、どこでも容易に水を引くことができ、地形的な制約というものがそこにはありませんでした。そのため、家々は散らばり、それぞれの周囲を耕作するようにな」つたと言ふことです。又「散居村」のやうな形態は「出雲の斐川平野、静岡県の大井川扇状地、北海道の十勝平野など、富山県内でも、黒部川や常願寺川などの扇状地の一部」にも見られるものの、その規模は砺波平野(散居村地帯の広さ約二百二十平方キロ、戸数約七千戸)が最も典型的である由です。なほ、外国では米国やカナダにも似たやうな例が有るさうです。
 なほ、この日の行在所は高岡市雨晴の海沿ひのホテルでしたが、皇后様は「富山にて」の御題にて「北国の海よりいづる日のひかり力づよくもかがやきわたる」とお詠みになられました。
 我等の郷土富山県に於て、この植樹祭に行幸啓の御砌、天皇様には秀麗なる陸の眺望を、皇后様には雄大なる海の景観を三十一文字に詠み給うたのですが、この栄誉を忘れること無く、これからも県民協力一致して麗しい郷土を守つて行きたいものです。

第十二回どんぐり祭 祭事報告(平成十九年十一月一日)

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第十二回どんぐり祭を十月二十四日に齋行しました。
どんぐり祭は、戦後焼失した境内の樹木を取り戻し、もっと緑豊かな神社の杜を育て子供たちがドングリ拾ひなどを楽しめる社叢をつくらうとして行はれてゐる祭典であります。
祭典終了後、本殿にて當神社林苑顧問の松久卓様より講話をいただき、佐久良文庫前にて古里チャリティー茶会より奉納された「眞榊(まさかき)」の記念植樹を行ひ、緑や樹木の大切さを感得してもらはうと雲雀ヶ丘保育所園児や崇敬會員とともに、「ヤマボウシ」の苗や「ドングリ」を神苑に植ゑました。
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十一月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年十一月一日)

水きよき池の辺(ほとり)にわがゆめの
      かなひたるかもみづばせを咲く

 昭和四十四年五月二十六日頼成山の植樹祭にてお手植ゑの後、両陛下は今の南砺市城端の縄ヶ池の水芭蕉群生地に御成り、散策遊ばされました。水芭蕉の天覧は天皇様の御希望であられた由で、当時の徳川侍従の話では、両陛下が水芭蕉を御覧遊ばすのは此の縄ヶ池が初めてとの事でした。御製に「わがゆめのかなひたるかも」と詠ませ給ひし所以です。
 所で、縄ヶ池に在る御製碑には「みずばしょう」とありますが、昭和四十九年に刊行された両陛下の御歌集『あけほの集』には「みづばせを」と表記されてゐます。この点に就き昭和六十一年に、天皇陛下御在位六十年を奉祝して出版された『富山縣の今上陛下御製碑』に載る元富山県立図書館長廣瀨誠先生の御考察を抄出、参照して解説に代へませう。
 一、昭和四十四年五月、縄ヶ池にて水芭蕉天覧。
 二、翌年元旦の各新聞紙上には、宮内庁発表の「みずばしょう」と表記された御製が謹載された。
 三、その翌四十六年春、縄ヶ池に御製碑建立。それには宮内庁発表の「みずばしょう」の表記が用ゐられた。
 四、昭和四十九年四月、『あけほの集』刊行。「みづばせを」と表記されてゐた。陛下は植物学者として『那須の植物』等を著述の際、学界の通例に従ひ、植物名は現代仮名遣・片仮名書きで表記された。一方、御製に於いては常に正仮名遣をお用ゐなされてゐる。
 五、この縄ヶ池の御製は、当初は植物学者として、学界通用の「ミズバショウ」をそのまま平仮名にして表記されたが、後、歌集『あけほの集』を御刊行になる際、正仮名遣に御直しになつたのではなからうかと、恐れながら拝察申上げる。
 六、陛下が動植物名をお詠みになつた例は「しらねあふひ」「はるとらのを」など大部分が正仮名遣表記。併し中には「にっこうきすげ」の如く現代仮名遣の例もある。
 七、水芭蕉の場合は「水」が古来の国語「芭蕉」が漢語の複合語。「芭蕉」は字音(じおん)仮名遣(かなづかひ)(漢字の音を仮名表記する際の仮名遣。正仮名遣即ち歴史的仮名遣では現代の同音の漢字でも、その仮名には書き分けがある。「様‐やう」「要‐えう」等)では「ばせう」であるが、俳人芭蕉が「ばせを」と署名したやうに「芭蕉」は伝統的に「ばせを」とも表記されて来た。
以上のやうな経緯から「芭蕉」には「ばせを」「ばせう」「ばしょう」と三通りの表記が見られる訳です。因みに、この御製板の解説には祖国の歴史、伝統を護持尊重する立場から、正仮名遣即ち歴史的仮名遣を用ゐてゐます。

秋季例大祭祭事報告(平成十九年十月十四日)

県民あげて齋行される最も重要なおまつりであります秋季例大祭が、十月五日に齋行されました。
祭典直前まで降り続いてをりました涙雨(なみだあめ)もあがり、約五百名の方が参列し、戦歿御英靈に感謝の誠を捧げられました。
宮司祝詞奏上に続き、新田八朗崇敬総代会長が参向使祝詞を奏上、富山縣知事・富山縣議会議長の祭詞奏上の後、巫女のよる『みたま慰めの舞』、神職による『いでたちの舞』、富山縣詩吟剣舞連盟による詩吟剣舞『日本刀』が奉納されました。
御参列御奉納賜りました皆様、御助勢いただきました皆様方に心より厚く御礼申し上げます。
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初詣「福ひめ」募集中(平成十九年十月一日)

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正月に白衣と緋袴姿で奉仕する、臨時巫女「福ひめ」を募集致してをります。
神様のお側近くに仕へ、参詣者と接する当社の顔となる「福ひめ」はとても重要なお務めであり、貴重な体験になるものと思ひます。ご希望の方は、お気軽にお問合せ下さい。
対  象 高校生以上~大学生までの方
人  数 四十名程度
受付期間 十月一日(月)~十二月九日(日)
奉仕期間 一月一日~七日頃
※十二月二十三日の説明会に出席できる方のみとさせていただきます。
随時社務所にて受け付けてをりますので、直接お越しいただき、所定の用紙にご記入の上お申込下さい。

高校生男子による助謹者も募集致してをります。
主な仕事は、正月期間中の神主の手伝いです。
詳細はお問合せ下さい。

十月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年十月一日)

頼成もみどりの岡になれかしと
       杉うゑにけり人びととともに

 四月の「県庁屋上よりの国見の御製」の所で略述しましたやうに富山県は植樹祭の原点の光栄を担ふ県なのですが、本県に於て第二十回国土緑化大会(この第二十回迄が「国土緑化大会」で、第二十一回から現行の「全国植樹祭」が正式名称となつた。なほ本県の此の大会は「四十四年植樹行事ならびに国土緑化大会」と称された。)が開催されたのは昭和四十四年五月二十六日のことでした。両陛下の本県への御成りは三十三年の国民体育大会以来実に十一年ぶりであり、二十四日東京を御発輦、二十五日は県内各所を御視察、二十六日愈々砺波市頼成山を会場に植樹祭が挙行されました。
 当日は風やや強く晴時々曇、時に小雨。植樹には都合の良い日となり、一万二千六百名の参加者は午前十時より緑化功労者の表彰等の国土緑化大会を開催、午前十一時お召車会場入口に到着、花火が高らかに両陛下の着御を告げ、植樹行事が始まりました。先づ全参加者による国歌斉唱、次に天皇様より「今後も関係者一同が益々協力して、国土緑化を推進し、国運の進展に寄与するよう、切に希望します」との御言葉を賜り、愈々お手植ゑ。両陛下は立山杉、ぼか杉、増山杉を夫々一本、「森」の形になるやうにしてお植ゑ遊ばされました。そして次に一万二千六百名の参加者の手により一万五千本の苗木が六ヘクタールの会場に植ゑられ、両陛下はこれを頼母しげに御覧になられたのです。
 「全国植樹祭」には毎回その大会のテーマが掲げられてをり、この第二十回大会のテーマは「低質広葉樹の高度利用と拡大造林の推進」でした。過去十九回の大会では殆どが松の類で、桧が四回、杉は三回で、今回の富山県で杉は四回目となりました。近年平成の御代になつてからは橅、桜、山法師等の樹種もみられます。又、昭和二十五年第一回の山梨県大会のテーマは「荒廃地造林」で、以下第二十回の富山県大会迄はそのテーマの殆どに「造林」の二文字が見られます。正に、大御心を戴いて、戦後復興に邁進せんとする先人の息吹が伝はつて来るやうです。このやうな先人の努力のお蔭を蒙り、素晴らしい「緑」を蘇らせた現在では、その大会テーマも昨平成十八年岐阜大会では「ありがとう 未来へつなげ 森のめぐみ」でした。今年平成十九年北海道大会のテーマは「明日へ 未来へ 北の大地の森づくり」です。先人の努力を承け継いで、豊かな「緑」を未来に伝へる事の大切さを語り掛けてゐるのです。
「富山県植樹祭」の御題の付けられた此の御製の碑は頼成山に建立されてゐますが、「人びととともに―天皇も、国民も皆一緒に」と仰せ給ふ点に殊に留意しなければなりません。この大御心を大切にして、今後も郷土の、更には国土の緑化にお互ひに努めたいものです。
なほ、当神社におきまして毎年○月に「どんぐり祭」を行ひ、神奈備(かんなび)の杜(もり)(神様の鎮座し給ふ神域の杜)をより充実させるやう努めてゐますのも、この大御心を戴き奉つてのことなのです。

第二十三回表千家献茶式祭事報告平成十九年九月二十四日

平成十九年九月十七日(月)午後一時より表千家献茶式を齋行いたしました%E8%A1%A8%E5%8D%83%E5%AE%B6%E3%80%80%E7%8C%AE%E8%8C%B6%EF%BC%91.JPG
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 今回の献茶式は第二十三回を迎へ、神社役員や県遺族会、表千家同門会、県茶道連盟、北日本茶会の関係者ら約四百五十名が参列し、栂野守雄宮司の祝詞奏上の後、献茶の儀が執り行はれ、表千家 左海 祥二郎 宗匠が洗練されたお点前を厳かに披露され、濃茶、薄茶を御神前にお供へしました。
 戰場で倒れられた御英靈たちが、末期の水もいただけぬまま亡くなられたことに思ひを馳せ、故郷の清水で点てられたお茶を当代一流の茶人によつて捧げ奉るものであり、十月五日の秋季例大祭を前に齋行されたものであります。
 献茶式に合はせ、表千家同門会富山県支部(谷野亮爾支部長)が担当する「桜菊茶会」も開かれ、秋の気配を感じながら一服を味はいました。
 御関係各位の御協力に感謝申し上げ、御報告いたします。

頒布書籍ご案内(平成十九年九月十二日)

著者  西川泰彦 (富山縣護國神社遺芳館主任研究員)
署名  『天地十分春風吹き満つ―大正天皇御製詩拝読』
定価  三千円
発行所 錦正社


「漢詩」は難解の先入観を捨て、平易な「意訳」と、懇切な「参考」欄の説明とにより「大正天皇御製詩(漢詩)」の世界に親しみ、國民と自然とを慈愛される大御心に觸れることによつて、不敬に満ちた偏見を拝し、英邁にして剛健なる大正天皇の御姿を知りませう。
 
この好著が一人でも多くの人々に読まれますやう、そして、從來、餘りにも世に知られる事の少なかつた、大正天皇の御聖徳が、廣く世に知られるやうに、皆様から御吹聴下さいますやう呉々も宜敷御願ひ申し上げます。

社務所にて頒布いたしてをります。お気軽にお申し出ください。

九月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年九月一日)

ふる雨もいとはできそふ北国(きたぐに)の
    少女(をとめ)らのすがた若くすがしも

 
 これも昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌詠ませ給ひし御製です。
 十月二十二日、この日は今回の五日間に亘つた行幸啓の最終日です。朝は生憎の雨でしたが軈て雨も上がり、午前中は先づ高岡古城公園の相撲場にて相撲競技御観戦、次いで砺波市の富山県農業試験場砺波園芸分場を御視察になられました。途次、砺波園芸分場の近くにてお召車の車中よりチューリップ苗の球根植付作業も御覧遊ばされました。この時周辺に繰り出した奉迎の人々は十万人、砺波市始まつて以来の人波であつたと当時の新聞は伝へてゐます。
 砺波市をお発ちの頃より折悪しく又雨が降り出し、午後零時半石動小学校御到着。小憩の後女子ホッケー競技を御観戦、雨などものともせず元気一杯に熱戦を繰り広げる少女達の姿に感銘を受けて詠ませ給うたのがこの御製なのです。
 昭和天皇の御製碑が全国に凡そ百四十基建立されてゐて、実はその中の一割、十四基もの御製碑が我が富山県内に建立されてゐる事は「立山の御歌」の解説にある通りですが、その本県の十四番目の昭和天皇御製碑となつたのが「女子ホッケー競技 石動小学校」の御題の付けられたこの御製碑なのです。
 県内には既に十三基の昭和天皇御製碑が建立され、昭和天皇御製碑全国最多の栄誉を担ふ中、「女子ホッケー競技」御製碑の建立も予てより、地元は素より県民各界各層から鶴首待望されてゐました。そんな折、篤志家の寄付を得て昭和六十二年に至り富山県ホッケー協会創立三十周年を期して、かつての国民体育大会ホッケー競技場の近く、小矢部市城山公園の一角に此の「女子ホッケー競技」の御製碑が建立されました。
 両陛下は毎年の国民体育大会に行幸啓遊ばされ、天皇様は特に開会式にての御感懐を御製にお詠み遊ばす事が殆どです。従つて何の競技か特定出来る御製は稀有(けう)(滅多に見聞き出来ない)と言ふも過言ではありません。オリンピック関連の御製でも同様です。管見(くゎんけん)(管の穴から見るやうな狭い知識)に入つたのは何れも国民体育大会の御製で「高崎山見ゆるテニスコートに・力つくしてホッケーきそふ―昭和四十一年大分県」「若人たちの角力(すまひ)(相撲)見にけり―昭和四十四年長崎県」「ハンドボールを神埼に見つ―昭和五十一年佐賀県」の四首です。競技名が分るのはこれくらゐでせうか。
本県での御製には御製そのものには「ホッケー」とは詠み込まれてゐませんが、御題に「女子ホッケー競技 石動小学校」と競技名も会場も明記されてゐると言ふ、稀有な一例なのです。

第八回元服立山登拜無事に終了しました(平成十九年八月二十七日)

八月二十一日から二十三日までの三日間、第八回元服立山登拜を実施いたしました。二日目は暴風吹きすさぶ悪天候となりましたが、小学校三年生から中学校一年生までの隊員十四名、全員揃って頂上の峰本社にお参りできましたことや無事に完遂できましたこと大変嬉しく思ひます。また、ガイドやサポーターの皆様、御協力賜りました山小屋の皆様、御協賛賜りました皆様方、誠にありがたうございました。H19%E7%99%BB%E6%8B%9C%EF%BC%93.JPG
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浄土山登拜中             浄土山山頂の軍人靈碑にてH19%E7%99%BB%E6%8B%9D%EF%BC%92%E6%94%B9.JPG
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雄山山頂の峰本社にて         大汝山付近H19%E7%99%BB%E6%8B%9C%EF%BC%95.JPG
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剣御前小屋にて            地獄谷にて

万灯みたままつり祭事報告(平成十九年八月十四日)

平成十九年万灯みたままつり諸祭典行事が滞りなく終了することができました。
あんどんをご奉納いただきました方や絵を奉納いただきました方、特別あんどんをご奉納いただきました方、各祭典行事にご参列いただきました方をはじめたくさんの方々のご協力により盛大裡に齋行できましたこと、先ずもって感謝申し上げます。
ここに一部ですが写真を掲載いたします。

七月三十一日午後八時 神楽の夕べ   いでたちの舞  みたまなごめの舞%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E8%88%9E%E4%BF%AE%E6%AD%A3.JPG
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本年ご奉納いただきました方のお名前を順不同、敬称は省略にて紹介いたします。
大島 秀信氏、野上 祇麿氏、古川 通泰氏、中野 清韻氏、木村 阿津湖氏、
小泉 正雄氏、藤井 和子氏、澤 大道氏、吉川 正紀氏、吉田 桂介氏、
小田 玉瑛氏、千 宗左氏、森下 眞翠氏、ペギー葉山氏、浅野 温子氏、
西村 雅彦氏、宮崎 義敬氏、春風亭柳之助氏、神田ひまわり氏、栂野宮司


八月一日午後七時四十五分からの富山市花火大会が賑々しく境内に華をそへてをりました。
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第三十回記念 富山市少年相撲大会結果報告(平成十九年八月十三日)

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 第三十回記念富山市少年相撲大会が八月一日に開催されました。
大会に参加されました団体戦16チーム118名・個人戦152名の選手をはじめ、監督、大会役員の皆様方大変ご苦労様でございました。
 ここに、見事に入賞されました方々を報告いたします(尚敬称は省略させていただきます)。
おめでたうございます。
 【団体の部】
   優勝  堀川小学校Aチーム
   次賞  山室中部小学校Aチーム
   三位  新庄小学校Aチーム
 【個人の部】
  <四年生以下のl部>
   優勝  藤吉 裕雅(長岡)    次賞  那須 鴻介(八幡)
   三位  細川 大地(八幡)    三位  吉田 昌平(池多)
  <五年生の部>
   優勝  稲葉 達哉(堀川)    次賞  水野 啓太(堀川)
   三位  柳  怜旺(堀川)    三位  吉野 裕也(大広田)
  <六年生の部>
   優勝  大西 泰司(堀川)    次賞  谷口  健(新庄)
   三位  林  悠眞(山室中部)  三位  酒井  葵(長岡)

 【優秀選手】
   堀川小学校    水野 啓太・クニヒロ ケンジ
   呉羽小学校    笹倉 康介
   新庄小学校    作田 遼介・谷口 健
   八幡小学校    正治 和馬
   山室中部小学校  林 悠眞

表千家献茶式のご案内(平成十九年八月十一日)

九月十七日(月)午後一時より、秋季例大祭に先だち表千家家元による献茶式を齋行いたします。
この献茶式は、戰場で倒れられた英靈たちが、末期の水もいただけぬまま亡くなられたことに思ひを馳せ、故郷の清水で点てられた濃茶と薄茶を当代一流の茶人によつて捧げ奉るものであります。

来月(九月)青空のみの市開催日(平成十九年八月十一日)

15_nominoiti.jpg九月の青空のみの市開催日は、九月二日です。
詳細は、青空のみの市実行委員会(電話090-2034-1929)へご連絡下さい。

遺芳録のページに松久友三命を掲載いたしました。(平成十九年八月四日)

松久友三命
昭和二十年五月二日
比、ネグロス島にて戦死
岐阜県出身四十五歳
 
http://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2007/08/post_3.html

八月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年八月一日)

   秋深き夜の海原にいさり火の
      ひかりのあまたつらなれる見ゆ

 
  昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、二十一日の行在所となつた氷見市の譽一山荘より、夜の海に漁をする漁船の灯りを望み給ひし御製です。この御製には「氷見の宿」の御題が付けられてゐますが、昭和三十四年その「氷見の宿」の向ひに御製碑が建立されました。
 三千メートル級の立山連峰を始め、多くの山々に囲まれた富山湾は、その山々を縫つて流れ込む水量豊富な七大河川等々のお蔭で魚の餌となるプランクトンも多く発生し、漁場としては絶好の環境と言はれてゐます。氷見、新湊、魚津等全国的にも有名な漁港の多い所以です。この御製には「秋深き夜の海」そして「いさり火」とありますので、これは氷見沖の烏賊漁の様子を天覧遊ばされての玉詠でありませう。
 両陛下の此の日の御動静は富山大学から始まり庄川の紡績工場、新湊の放生津保育園、高岡市の化学工場、伏木港と御視察を重ね給ひ、行在所にお入りの後も高岡高校生物クラブの収集した中部日本海岸産の後鰓類の標本を天覧遊ばされました。
 越中路に、漁火(いさりび)を詠ませ給ふ御製には自づから万葉の古歌が思はれます。その古歌の舞台は「能登の海」ですが、「有磯の海」と距離的にも、さう違はないでせうから。
   万葉集巻第十二。詠み人知らず(澤瀉久孝著『万葉集注釈』より)
    能登の海に釣する海人(あま)の漁火の光にい行け月待ちがてり
     口訳―能登の海に釣をする海人の漁火の光に照されてお行きなさい。月の出を待ちながら。
 暗い夜の海に、数多の漁火が連なる様は本当に明るいものです。万葉の古(いにしへ)と昭和の御代とでは熱源も違へば明るさも勿論段違ひではありませうが「漁火の光に照されてお行きなさい」と歌はれる如く、夫々の時代なりに其の明るさは強(あなが)ち誇張とも言へないくらゐなのです。天皇様は能登に近い氷見の漁火を天覧遊ばされて、この万葉の古歌に思ひを馳せ給ひしにやと、恐れながら拝察申し上げる次第です。
 なほ、昭和六十年に鳥取県での国民体育大会の御砌にも「米子市にて」の御題にて「漁火」を詠み給ひました。
   あまたなるいか釣り舟の漁火は夜のうなばらにかがやきて見ゆ
 御製の総てが公表される訳ではありませんが、少なくとも公表されてゐる昭和天皇御製の中で「漁火」を詠み給ひしは「氷見の宿」と「米子市にて」の二首だけであらうと思はれます。

星空のみの市 8月4日 落語と講談の夕べのご案内 (平成十九年七月十八日)

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落語 春風亭 柳之助         講談 神田 ひまわり
 8月4日(土)午後4時から星空のみの市を開催します。また、落語と講談の夕べを午後7時30分から開催します。入場は無料です。どうぞ御家族お揃ひにてお参り下さいませ。

万灯みたままつり 八月一日のご案内(平成十九年七月十六日)

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 万灯みたままつり
 
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 神楽の夕べ
 
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 富山市少年相撲大会
 
 
 
 
 
 
 
八月一日(水)は万灯みたままつりを午前十時より行ひます。
万灯みたままつりに先だち、七月三十一日(火)に富山縣鎭靈神社例大祭を午後七時より神楽の夕べを午後八時より行ひます。
また、八月一日は、今年で第三十回目を迎へた富山市少年相撲大会が境内の富山市相撲場にて行ひます。また、午後七時半すぎからは、富山市の花火大会が神社境内上空に賑わひを呈してをります。

七月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年七月一日)

   紅(くれなゐ)に染め始めたる山あひを
        流るる水の清くもあるかな

 
 此の御製には「宇奈月の宿より黒部川を望む」との詞書(ことばがき)(和歌で、その歌を詠んだ日時や背景等を記した前書)があるやうに、昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、十月二十日の行在所となつた宇奈月温泉の宿よりの絶景を詠ませ給ひし御製です。後述の如く、宇奈月御到着は夕刻でしたので、お詠みになられたのは翌二十一日の朝のことであらうと拝察されるのです。
 折柄宇奈月の山々は錦秋(きんしう)(紅葉が錦を織り成したやうに色鮮やか)も愈々始まらうかといふ季節。お召車は奉迎の旗の波を縫ふやうに進み、午後四時三十五分温泉郷の行在所に入り、両陛下の御安着を告げる花火が町民の感激と喜びそのままに黒部の清流の両岸に谺(こだま)しました。
 午後七時半、行在所の対岸では奉迎の花火が始まりました。星空をあざむくばかりに尺玉が入り乱れて花開き、川面には「奉迎」等々の仕掛け花火が清流に煌(きら)めき、その頃、町民千五百人余の奉迎提灯行列も行はれ、ブラスバンドを先立てて行在所に到着。両陛下はバルコニーに御出ましになり、町民の真心溢れる奉迎に応へ給うたのです。
 信越国境鷲(わし)羽(ば)岳(だけ)(標高二千九百二十四メートル)に源を発する黒部川は、流路凡そ八十五キロの八割が深山幽谷にあります。為に、その高低差と豊富な水量とを利用して「黒四」に代表されるダムが多く設けられてゐます。素より水質は清らかで、下流に至つても名水百選の一つに数へられる「黒部川湧水群」があるくらゐで、玉詠に「流るる水の清くもあるかな」と詠ませ給ひし所以でせう。
 昭和三十八年に宇奈月温泉は開湯四十周年を迎へました。これを記念して、宇奈月公園の一角に、この昭和三十三年の行幸の御砌に詠ませ給ひし御製を刻んだ御製碑が建立されたのです。

遺芳録のページに横澤哲也命を掲載いたしました。(平成十九年六月二十六日)

横澤哲也命
海軍甲種飛行予科練習生第五期生
氷見市鞍川出身 二十歳

「陣中日誌」
「陣中日誌」は、遺骨が帰る以前に、遺品として軍帽と共に戦友の方によつて届けられた。日誌には、弟 隼人さんが、陸軍幼年学校(仙台)に合格されたことを大変喜んでをられることや、シャワー代りのスコールや、配給のお酒を楽しみにしてをられる様などが処々に記されてゐますが、中でも胸打たれるのが、正に命を捧げられた最前線での軍務です。横澤哲也命は南方の離れ小島の基地に在つて日夜、索敵、接触と云ふ、言はば最前線中の最前線に従軍してをられたのです。暑ければ冷房、汗をかけばシャワーと言つた現代人には、想像もつかないやうな炎熱の最前線に、祖国防衛の使命感に燃えて困苦欠乏に克く耐へられた御祭神の崇高な精神に、今に生かされてゐる我々は心からなる感謝の念を捧げなければならないと、この日誌を読めば、改めて痛感させられる。
http://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2007/06/post_1.html

六月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年六月一日)

 たくみらも営む人もたすけあひて
      さかゆくすがたたのもしとみる

 「黒部の工場」と題された此の御製は、昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、当時の吉田工業株式会社(YKK)黒部工場、今の牧野工場を御視察され、その御感懐を詠み給ひし御製です。
 戦時中の反動もあつてか、昭和二、三十年代の頃には殊更資本家、労働者を峻別し、前者を悪玉、後者を善玉と単純とも言ふべき色分けをして、徒に反目を煽る風潮がありました。そんな社会の中に在つても、同じ日本人同士として経営者、労働者夫々の立場、特質を活かし合ひ協力し合つて、戦争で疲弊した祖国の再建に貢献し、企業も繁栄し自分達も幸せにならうと、地道に共々に頭脳を絞り額に汗する人達も大勢ゐました。YKKも経営者、従業員一体となり自社の儲けのみを追求するのではなく、もつと高い次元の「世の為、人の為」を考へる経営を実践してゐました。
 天皇様は「大東亜戦争終結の詔書」の一節に「宜シク、挙国一家、子孫相伝ヘ、確(かた)ク神州ノ不滅を信ジ、任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ、総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤(あつ)クシ、志操ヲ鞏(かた)クシ、誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ後(おく)レサラムコトヲ期スヘシ。」(意訳―国中が一つの家族として、子孫にも伝へ、神々の国日本は絶対に滅びない事を確りと信じて、持てる力の総てを将来の国造りに傾け、倫理道徳を大切にし、嘘偽りや浮ついた心に流れる事無く、必ずや、純粋で麗しい日本の国柄を振ひ起こし、日に日に進み行く世界の動きに後れをとらないやうにしなければなりません。)と国民をお諭しになられました。大多数の国民は、このやうな大御心(天皇様の尊いお考へ)にお応へ申し上げるべく、戦後の復興に奮励努力を重ねて来たのでした。
 YKKには牧野工場、黒部工場双方に此の御製碑が建立されてゐます。牧野工場の御製碑は行幸啓記念に建立され、その碑文の一節に「創業以来二十五年、真に労使渾然一体となって進んで来た当社の姿がそのまゝ御製の御心と拝され、全員いよいよ和衷協力、相扶け相励まし、我が国経済の発展と輸出の振興に努めるとともに、広く工場の海外進出を図り、日本民族の繁栄、人類の福祉に貢献せん」とあり、創業五十周年記念に黒部工場に建立された御製碑の碑文には「社員一同」の名を以て同様の趣旨が書かれてゐます。
 「大東亜戦争終結の詔書」には「(朕ハ)常ニ爾臣民ト共ニ在リ」の一節もあります。天皇様は昭和二十四年五月二十九日九州御巡幸の御砌、作業服をお召しになり三池炭鉱の地底千五百㍍、最前線の切羽に粉塵をものともせず玉歩を運ばせ給ひ御視察、その帰途には職員組合長、労働組合長にも慰労、激励の御言葉を賜りました。この富山県行幸啓の御砌にも御視察遊ばされたYKK始め各工場、事業所では必ず労働組合の代表者にも御言葉を賜つたのでした。正に御身を以て「終戦の詔勅」を実践してをられたのです。

第八回元服立山登拜を実施いたします(平成十九年五月二十一日)

第八回「元服立山登拜」を実施いたします。
参加希望者多数につき、締切り期日前ですが受付を終了させていただきました。
 
         第八回元服立山登拜募集要項
・期     日  平成十九年八月二十一日(火)~二十三日(木)[二泊三日]
・目  的   地  立山三山(浄土山・雄山峰本社・別山)従走
・参  加  費  10,000円(山荘宿泊代・保険料のみ)
・受 付 期 間  平成十九年五月一日 ~ 七月三十一日(〆切日)
・募 集 人 数  十名(満員次第〆切)(班五名・二班編成)
・募 集 対 象  小学校四年生~高校三年生
・申     込  富山縣護國神社まで、電話にてご連絡下さい。
          電話〇七六・四二一・六九五七
          なお、詳細などの質問がございましたら気軽にご連絡下さい。

五月の御製板を奉掲致しました。(平成十九年五月十二日)

御ほとけにつかふる尼のはぐくみに
        たのしく遊ぶ子らの花園


昭和三十三年第十三回国民体育大会秋季大会に行幸啓の御砌、当時の社会福祉法人「ルンビニ園」に行幸啓遊ばされた折の御製です。「ルンビニ園」は戦後、戦災孤児を収容し、親代りに養育せんとの慈悲心から、当地(当時は上新川郡婦南村。今は富山市中布目)の霊眼寺住職谷口節道禅尼が創設した施設ですが、其の後種々の家庭の事情に依り、養育不能の子供達をも収容するやうになりました。「ルンビニ」とはネパール南部タラーイ地方の地名で仏様の御誕生地と言ひ伝へられてゐる所です。
 皇室では御歴代に亘り、老人や子供、中でも、幸(さち)薄い国民には殊に慈愛の御目を注いでをられますが、昭和天皇は「ルンビニ園」にはこの時までに既に九回御下賜金を下されてをられました。
 両陛下は谷口園長の「戦災孤児のお母さんになりたいと思ひ、お寺を開放したのが何時の間にか一般の孤児も収容するやうになりました」「周囲の暖かい援助で子供達は幸せを取り戻したやうです」等々の御報告に深く感動し給ひ、天皇様は「これからも一所懸命努力して、可哀想な子供達を助け、立派な社会事業をするやうに」との御言葉を賜りました。そして、遊戯をしたり絵本を見たりしてゐる子供達を御覧遊ばして、施設内をお回りなつて、二階の中学生、高校生の所へお回りの為、階段を昇られた時に、皇后様に「お母さん」と呼び掛けた子がゐました。それは父は亡くなり、母は病気といふ寂しい環境に育つた七歳の子でした。皇后様は微笑み給ひ、二、三段昇りかけた階段を降りて、慈愛に満ちた眼差しでその子を見つめられたのですが、それは正に「国母(こくぼ)陛下―国民全体の母親であらせられる皇后陛下」の尊くもお優しいお姿でありました。そして、中学生、高校生には、天皇様は「勉強して立派な人になるやうに」、皇后様は「体を大事に」と励まされたのです。
 皇后様(香淳皇后)は昭和三十一年に「福祉事業」の御題にて「母とよびわれによりくる幼な子のさちをいのりてかしらなでやる」とお詠み遊ばされました。皇后様は正に「国母陛下」にあらせられるのです。
 なほ、ルンビニ園ではこの行幸啓を永く記念すべく、翌三十四年浄財を仰いで行幸啓記念館を建設し、更に御製碑を建立しました。当時の侍従入江相政氏揮毫のルンビニ園の御製碑には「みほとけにつかふる尼のはくくみにたのしく遊ふ子らの花その」と刻まれてゐます。

富山縣護國神社のHPを開設しました。(平成十九年四月十七日)

富山縣護國神社のHPを開設しました。
このHPで季節のイベント、祭事情報などを掲載していく次第であります。
また、富山縣護國神社創建九十周年記念「遺芳録」をHPで掲載していきますので
ご閲覧ください。
今後とも富山縣護國神社をよろしくお願ひします。

富山縣護國神社
富山県富山市磯部町1-1 TEL:076-421-6957 FAX:076-421-6965

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