上田貢 命

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昭和二十一年六月六日
フィリピンマニラにて法務死
富山市石金 三十歳
 
法務死・・・ 大東亜戦争後、東京や海外の軍事裁判に依り、
      死刑に処せられた方々を、厚生省では「法務死」
      と称することとした。後注参照。

 【上田愛子様宛封書】
◎ いくとせの厚きみに報(ムク)ゆべく
          物とて生命(イノチ)捧げん
◎ 後の世に上田の花をでられん(めでられん)
       矢後のつとめにはげみしいさを
 私とお前と恵子の名にちなんで歌を送る。私の死は何時かわからねば(多分新聞には出る事と思ふが)、判決のあつた三月四日を命日と思つて呉れ。今獄中には、本間中将、憲兵先輩数名同じ運命にある人が居りますが、毎日愉快に語りつゝ国に殉ずる日を待つて居る、心境は止水明鏡。
 
矢後…戦場では後方勤務の兵員。一般には非戦闘員たる国民全体を指して云ふ。「銃後」に同じ。
 
 
 【上田愛子様宛封書】
 前略、先便にて既に覚悟はして居ると思ふが、私も目下敗戦の犠牲者の一人として死を待つて居る。出征当時既に生還を期しては居なかつたから、今更死を怖れては居ない。お前も私を信じて居ると思ふ。私の戦犯事実が如何に伝へられても、又人がなんと云つても少しも卑下する必要はない。日本軍人としてなすべきを尽した丈で、名誉の戦死と少しも変る処はない筈だ。私の死後は両親と相談の上、お前の正しいと信ずる道を励進して呉れ。恵子の将来を頼む。
 
 【上田泰嗣様宛封書】
三月三十一日(注・昭和二十一年)
 前略。先便既に御受取りの事と存じます。三月四日判決を受け、今尚生き長らへて居ります。新聞其他で既に公表して居ると思ひますが、私の戦犯事実が如何に伝へられるも、決してお嘆き下さいますな。私の行為は日本軍人として当然なすべき事を行つたにすぎず、何にも人に卑下すべき恥かしき行為は少しも有りません。又戦犯事実がなくても、此の大敗戦に然も数名の部下を戦に死なせた自分として、申し訳にも生きては居られません。愛子・恵子の事は何分宜敷御願ひ申します。
 
 【上田泰嗣様宛封書】
 上官の命令は事の如何を問はず服従すべしと教育されて来た我々が、之を実行して罰せられるのなら、我々としては如何ともする事は出来ない。勝てば官軍負ければ賊軍で、私達も戦に勝つて居れば殊勲者と云はれたでせう。それで我々は少しも恥しいとは思つて居ません。我々としては為すべき事を為したにすぎません。
 今私と一緒に同じ運命にある人が数名居ますが、一人として悲しんで居る者はありません。皆殉国の士なりと自覚して居ります。山下大将・本間中将と共に散つて行くのを名誉とも思つて居ます。
 裁判経過に就ては、まだ言ひたい事も聞いて貰へなかつた様に思ひますが、然し裁判記録が残つて居るので、米軍でも見る人が見れば解つて呉れる事と思ひます。唯、私の気に掛るのは御両親に先立つ申訳と妻子の行末丈で、何卒之の点おわびすると共に宜敷く御願ひ申します。
 
 『皇国(クニ)に散る桜花(ハナ)をしのびつ
      我もまたとつくに人に見せん国花(クニバナ)』(昭二一・四・七)
 御祖父様や博兄さんに会へるのも近い事を楽しみにして居ます。
 
山下大将・本間中将…後掲
 
 【上田愛子様宛封書(遺書同封)】
 前略、先便にて既に覚悟はして居つて呉れると思ふが、私も敗戦国の犠牲者の一人として目下死を待つて居る。残念は残念だが、今となつては如何とも仕方がない。然し私の死も、戦闘中華々しく散つた戦友の死と少しも変りはない筈だ。天皇陛下万歳を唱へて立派に死ぬ決心は既に出来て居る。だからお前も私を信じて、私の戦争犯罪事実が如何に伝へられても、又、人々がなんと云つても少しも卑下する事なく、名誉の戦死をした軍人の妻であつた事を喜んでほしい。
私の死んだ後は、両親と相談の上、お前の都合の良い様にして呉れ。恵子の顔が一度見たかつたが、今となつては仕方がない。私の今の心境を歌にして置く。
いくとせの厚きみに報(ムク)ゆべく
  物とて生命(イノチ)捧げん
恵子と私の名を歌ひ込んだ。
お前のために一つ歌ふ。
後の世に上田の花をでられん
   矢後の務(ツト)めにはげみしいさを
 矢後は銃後と同じ意味だ。お前の御両親にも宜敷、お前もかならず泣いて呉れるな。私の名誉戦死を嘆くお前でない事を信じて居る。
 
 遺書     
  昭和二十一年四月二十三日
一. 御両親様ヘ
 三十有余年間ノ御養育其他ニ対スル報恩ノ一端モ尽シ得ズ、先キ立ツ罪ヲ御許シ下サイ。然シ、今此処ニ国ニ殉ジ死ニ赴カントスル一事ヲ以テ、全テヲ御許シ下サル事ト存ジマス。
 私ノ死後、新聞ラジオ等ニ依リ、私ノ戦争犯罪事実ガ誤報サレテ伝ハル事ヲ怖レ、次ニ簡単ニ事実ヲ書キ残シマス。

●昭和十七年七月六日当時、私ハ四名ノ憲兵ノ長トシテ某部隊ニ配属トナリ、「レイテ」島「タクロバン」町ニ在リマシタガ、七月六日俘虜収容所カラ逃走ヲ計ツタ米人将校一、比島人三ヲ部隊ニ於テ処刑スルニアタリ、憲兵トシテ立会ヲ命セラレ、死刑現場ニ立会ヲシタ事。
●同年八月十四日同部隊ハ比島側「レイテ」州知事ヨリノ依頼ニ依リ比人死刑囚六名ヲ処刑セルモ、当時私ノ部下二名ハ之ニ参加シタカ、私ハ当時「セブ」市ニ出張シテヰテ、之ノ事ハ全然知ラナカツタ。
 
事件事実ハ右ノ通リデシタガ、裁判ノ結果、比人証人ノ嘘言ヲ信用セラレ、当時私ハ「タクロバン」ノ憲兵隊長デ、右ノ事件ハ全テ私ノ命令ニ依リ行ハレタト判断サレテシマヒマシタ。其レト云フノモ、当時ノ部隊長・直接指揮シタ将校・行為者等全テノ人達ハ現在戦死シタカ行方不明デ居ナク、私一人カ生キ残ツテヰタ故、然モ住民ニ良ク名前ヲ知ラレテ居タタメ、私一人ダケ起訴サレタ次第デス。
 状況以上ノ如クデ、私トシテハ第一ノ事件デハ現場ニ居タ丈、第二ノ事件ハ全然知ラナイ事デシタ。
 内地ノ人達デモ常識ノ有ル人ハ、斯ル馬鹿ナ裁判ガアルモノカト思フ人モアルト思ヒマスガ、此ノ様ナ裁判ハ私ノ場合丈デナク多数アリ、斯ル裁判ガ平気デ行ハレテヰルノデス。ダカラ私トシテハ、裁判ヲ受ケテ殺サレルト思ヘバ残念デスガ、戦ニ負ケテ有無ヲ云ハサヌ敵ニ殺サレタト思ヘバ何ンデモナイ事ト思ヒマス。
 判決ヲ受ケタノガ三月四日、今日ハ四月二十三日デス。其ノ間約五十日獄舎ニ入レラレ、一週間ニ一名二名ト死刑執行サレテ行クノヲ目ノ前ニ見セツケラレテヰル苦痛ト云ツタラアリマセン。ナゼ判決ヲ下シタラ、一ト思ヒニ殺シテ呉レナイノカト憤慨シテ居リマス。
未ダ色々書キタイ事ガアル様ニ思ヒマスガ、今トナツテ書ク事モ出来マセン。
只、御両親様並ニ弟妹達ノ長命ヲ祈ルト共ニ、妻子ノ将来ヲ御願ヒ申シマス。
 愛子ノ将来ニ就テハ、私、少シモ束縛シヨウトハ思フテハヰマセン。全テ彼女ノ意思ニマカセテヤツテ下サイ。最後ニ私モキリスト教徒トシテ昇天シテ行キマス。
 神ヨ、我ガ一族ニ祝福ヲ与ヘラレン事ヲ!!
(遺骨ガトドカヌト思ヒマスカラ遺髪ヲ同封シテ置キマス)
 
二.最愛ナリシ愛子ヘ
1.余ト結ビ日時短小ナリト雖モ良ク余ニツカヘ、余征キシ後、恵子ノ養育ニ務メタルヲ心ヨリ感謝ニ堪ヘヌ、然ルニ余、君ヲ遇スルニ足ラザルアリタルヲ恥ヅ。
2.尚、我レ逝キシ後、君ニ対スル苦難ノ途多々アルヲ思フ。
  希ハ大和撫子ノ真髄ヲ発揮シ、君ガ希望セラルゝ途ヲ邁進セラレン事ヲ。
3.君ガ処世上若シ恵子重荷トナル事アラバ、我両親ニ之ヲ托セヨ。
三.未ダ見ザリシ最後(ママ)ノ恵子ヘ
1.オ前ノ父サンハ国ニ忠義ナ立派ナ日本人ダヨ。
2.オ前ノ祖父母サンヤ母サンモ立派ナ日本人デス。父サンガ無クテモ祖父母ヤ母サンノオ教ヲ良ク守リベン強シテ立派ナ人ニナルノダヨ。
3.オ前ガ学校ニ行ク頃ハアメリカ流ノ教育ニナツテヰルト思フガ、アメリカ流デモ良イ所ハ進ンデナラヒ、人ニ負ケテハイケナイガ、日本人ダト云フ事ヲ寸時モ忘レテハイケナイ。オ父サンハ永イ間外国ニ居テ、外国ノ女ハ少シモ偉イトハ思ハナカツタ。ヤハリ女ノ人ハ日本ノ女ガ世界第一立派デアツタト思ヒマス。ダカラ大キクナツタラ立派ナオ母サントナツテ立派ナ日本男子ヲ沢山生ンデ、父サンガアメリカト戦ツテ立派ナ戦死ヲシタ事ヲ伝ヘテ下サイ。
         昭和二十一年四月二十三日
                  於マニラ
                    上田貢
 オ父サンハ何時モオ前ト共ニ居テ、オ前ヲ護ツテ居る事を忘れるな。
 
「居る事を忘れるな」、ほんの一部分のみ平仮名となつてゐます。想へばこれは遺書で、しかも「未ダ見ザリシ」我が子に宛てたものです。軍人としての素養のまにまに、遺書の送り仮名は片仮名を用ゐてこられましたが、父として、我が子への情愛がつのるのは当り前のことです。軍人上田貢から親上田貢へのおのづからなる心が映し出されたのがこの何字かの平仮名でありませう。
 
 
 皆様ハ私ガ最後迄「レイテ」ニ居タト思ツテヰラレル事ト思ヒマスガ、私ハ敵ガ上陸スル少シ前ニ「サマール」島ニ転勤、敵上陸ト共ニ「サマール」山中ニ入ツテ遊撃戦ヲ行ヒ、二十年九月ニ大命ニ依リ投降シマシタ。当時ハ憲兵曹長デシタ。普通デ行ケバ二十年十二月ハ准尉ニナツテヰル筈デス。
 
【上田愛子様宛封書】
四月二十八日(君の御両親並に富坊にも宜敷)
 前略。私に嫁して既に五ヵ年になつたが、共に居たのは実に短日月だつたが、良く私の様な者につかへて呉れた。之に反し、為しうべき事も為し得なかつた事を恥ぢて居る。然し君が私の妻であつた事は恥ぢて居ない事を確信して居る。だからと云つて、君の将来を束縛しようとは思はない。君が最善と思ふ道を選んで進んで呉れ。両親にも此事はお願ひして置いた。恵子の事も両親と相談して宜敷頼む。君と恵子の行末には、必ず私が共に在る事を忘れないで呉れ。君と共に在りし日の事共を胸に抱きて我は逝く。
 
 【上田愛子様・恵子様宛封書】
 昭和二十一年四月二十八日
 恵子が物心つく様になつたら次の事を良く教へて呉れ給へ。
㈠恵子の父さんは国に殉じた立派な人であつた事。
㈡恵子の母さんも祖父母さんも共に立派な人で、父さん無き後は、祖父母・母さん達の云はれる事を良く守つて、勉強して立派な日本女性となる事。
㈢父さんは何時も恵子と一緒に居るのだから、少しも淋しがらずに素直に生長する事。
 以上を未だ見ざる我子に遺して行く。良く教へ導いて呉れ給へ。見ざる子故に、尚さら瞼にはつきりと恵子の生長した姿が映じて来る。素直に生きよ。
 
 【上田泰嗣様宛封書】
(外務省終戦事ム局中村公使ニ依頼セバ返事ガ来ルカモ知レマセン)
 前略、判決を受けて既に二ヶ月が過ぎました。後は日時の問題となりました。今は専ら静かに来るべきものを待つて居ります。私の死後、遺書遺髪其他私の生前の状況は、復員する戦友達に依つて伝へられることと思ひます。家のことや妻子の事は、御両親が居られるので安心して逝く事が出来ます。何卒宜敷お願ひ申します。親戚知己には宜敷御鶴声の程を、御両親の御長命を祈ると共に、我が一家の行末を蔭乍ら御守りする決心です。          草々
 
 【上田愛子様宛封書】
     五月五日
 毎日曜日に最後最後と思つて送る便りも相当の数となり、私の便りを受けとる度に君始め皆様に御心痛を掛ける事を申訳なく思つて居る。君から皆様に良く申訳して呉れ。君には勿論心からすまないと思つて居るが、之も運命か?男として軍人として当然受けねば成らぬ。敗戦の罪か?逝く私は兎も角、後に残る君達の将来が実に気に掛つて仕方がない。君の御両親にも良く私の心境をお伝へして呉れ。軍人として立派な最後を飾らんとして居ることを。
 『獄内に溜りし水を指につけ
     妻と云ふ字をそつと書く』
 
 【上田泰嗣様宛封書】
    五月十二日
 最後最後と思つて出す便りも既に拾回前後となりました。便り受け取られる度に御心痛をお掛けすると云ふ事は百も承知し乍ら、書かずに居られない現在の心境をお察し下さい。
 一日一日と生き長らへるにしたがつて、家の事共が思ひ出されて仕方がありません。現在尚戦前の如く、皆様の御元気な顔が目に浮びますと共に、将来余りに多くの苦難の道が、皆様の前に横たはつて居るのではないかと心配して居ります。更生日本の大行進に歩調を合し、逞しく前進されんことを。
 
 【上田泰嗣様宛封書】
五月十九日
 判決を受けて既に二ヶ月半は夢の様に過ぎ去りました。二ヶ月半の獄舎生活中に、種々過ぎ来し方を振り返つて考へて見ましたが、三十二年間何一つ為す事なく過した事を恥かしく思つて居りますが、最後に当つて殉国の士として、日本人としての最後を飾る事の出来るのを何よりの誇りと思つて居ます。三十二年間は夢の様に短く思はれますが、此の間に於ける御両親の御苦労の程がしみじみと思はれて、何一つ報恩の挙に出られなかつた事を残念に思つて居ります。恵子亦、父の顔を知らず生長せんとして居ります。何卒之を私の生れ変りと思はれ御養育されん事を伏して御願ひ申します。
 
 【上田愛子様宛封書】
五月二十六日
 一週間又過ぎ去つた。浮世を離れた生活にも、日々の過ぎ行くのは遅い様で早いものだ。葉書を送る様になつて、既に十数回送つた。夫婦は一心同体だと云ふ。今の私の心境は既に君に通つて居ることと思ふが、神が私に今試みて居る試練を其のまゝ君に体験さすにしのびないが、此の試練が君の将来に対する尊い体験になることと思ふ。決して短気を起さず、神を信じ私を信じて行動を律して呉れ。君と共に過した期間は実に僅少だつたが、精神は既に五年以上通ひ続けて来たのだ。決して短い期間だつたと思つて居ない。恵子を宜敷頼む。
 
法務死… 我が日本国は、連合国の軍事法廷や東京裁判で宣告された戦犯刑を国家の意思として明確に否認してゐます。それはどう云ふ事かと言ひますと、我が国の恩給法には禁錮三年以上の刑に処せられた者は、恩給受給資格を剥奪されると云ふ規定があります。ところが、戦犯とされ、前記規定以上の刑を受けた筈の方々も勿論恩給を受け、或は靖国神社に合祀されてをられます。これは何故でせうか。
 講和条約発効後、日本国政府及び国会は「戦争裁判受刑者等に対する特別措置」と云ふ実に注目すべき事を行ひました。即ち、昭和二十八年七月二十三日、衆議院厚生委員会は、遺族等援護法、未復員者給与法等改正案を可決しました。このことに依って、戦犯刑死者の遺族の中で、恩給受給資格者に対しては、恩給法に依り、それ以外の者については、遺族等援護法に依り、年金が支給されると云ふ事になつたのです。―この際、特に注目しておくべき事は、この可決が全会一致で行はれた点なのです。当時、この委員会に議席を有したのは自由、改進、左右社会の四党でしたが、これらが全会一致して賛成したのでした。そしてこの法律は八月一日、本会議に於て成立しました。このやうにして、戦犯刑死者を戦時下の公務死として、戦死、戦病死と同様に扱ひ、又、刑死以外の服役者は、その服役期間を公務(軍務)の服務期間として恩給加算年限に加へる、この二点を承認したのです。更に、翌二十九年の国会に於ては、戦犯として刑死、又は獄死した方の遺族に対し、恩給法の一部が改正され、その該当する遺族には公務扶助料の年額に相当する扶助料も支給されることとなりました。これらの法案可決の意味するところは、何なのでせうか。それは、連合国の軍事法廷、東京裁判で宣告した戦犯刑を我が日本国は、国家意思として、これを明確に否認したと云ふ事にほかならないのです。即ち、日本には断じて、“戦争犯罪人”などは存在しないのです。
 そして、靖国神社は、恣意的に、神社独自の判断で、合祀してゐるのではありません。先述の如き、「国家に依る認定」を受けた方のみを、御祭神、この場合は「昭和殉難者」とお称へして合祀してゐる
のです。
 
山下大将…山下奉文(ともゆき)。明治十八年生、高知県出身、陸軍大将。
大東亜戦争の折マレー・シンガポール作戦を指揮、英軍を制圧、その神速果敢の名指揮は、後日「比
島決戦の歌」(西条八十詞、古関裕而曲)に「陸には猛虎の山下将軍」と歌はれた。昭和二十一年二
月マニラにて法務死。
 
本間中将…本間雅晴。明治二十年生、新潟県出身、陸軍中将。
 大東亜戦争の折フィリピン攻略戦を指揮、バターン・コレヒドール攻略に手間どり、十七年八月予備役編入。昭和二十一年四月マニラにて法務死。



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