
昭和十二年十月十日
上海附近須宅方面にて戦死
婦負郡山田村出身
【父上様宛遺書】
父上様
軍人として、陛下の股肱として、出征出来る義秋は幸福者です。喜んで御役に、死を鴻毛より軽く捧げて御奉公申上げる覚悟です。
将来に就ては何も申上げる事は御座居ません。日本の国は、天皇陛下に忠となれば親に孝なる立派な国です。何卒出征後は御体を大切に。母様をいたはつて、武運ありて他日凱旋出来る日を思つてお暮らし下さい。
親の恩は、実に深長です。時折態度の悪かつた事を御免下さい。今は只、我身は勿論、親をも忘れて御奉公の赤誠で一杯です。
生計に就ては何卒父母の随意に、決して無理な仕事をせぬ様に、特に申添へておきます。
昭和十二年九月十日晩
義秋
父上様
股肱…「もも」と「ひじ」。又は手足。主君の為手足となって奉公するの意から。君主が最も信頼する臣下。
【母上様宛遺書】
母上様
涙の中で喜んで下さい。
私は帝国の軍人です。今度出征する事は、非常な幸福者です。天皇陛下の片腕として働く私を喜んで下さい。然し何事も運命です。私も出征の暁は、身を粉にしても進んで御奉公申上げる覚悟です。
私は天皇陛下の赤子(せきし)です。そこをよくわきまへて下さい。両親は只育ての親です。今迄の母性愛、七死するともわすれません。
何卒お体を大切に、決して取越苦労や無理をせぬ様に、特にお願申上げます。
いづれにせよ、私を自分の子と言ふ心をわすれて下さい。
外に何も申す事はありません。私の今の心は只奉公の誠で一杯です。
昭和十二年九月十日
義秋
母上様
注・この遺書は竹森上等兵が出征に際し「私が戦死したら読んで下さい」と言ひ残し、仏壇の中にしまつていかれたもので、御両親は戦死の知らせを受けた後、村役場の人に来て貰ひ、その立会の下にこの遺書を開封されたと云ふ。
竹森上等兵は須宅の激戦中、単身二、三百人の敵陣中に突入、白兵戦の末十数名を斃し、自らも敵の小銃弾、手榴弾を十余ヶ所に浴びて昏倒。四日後、友軍に依り発見され直ちに野戦病院に収容されたが、十月十日、「天皇陛下万才」を叫んで絶命。
右の事は昭和十三年発行の講談社の絵本「忠勇感激美談―イサマシイ竹森上等兵」に採り上げられた。
赤子…天子を父母と称するのに対して、国民を云ふ称。