笹倉林治 命

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昭和二十二年十二月二十九日
マニラにて法務死
富山市四方町出身 二十六歳

【遺書】
 前文御免、其の後、何の変化もありません。私達裁判の再審も終り同一ケース死刑四人、内、風戸文之君が懲役二十年に減刑、中村隊長、小生、一条幸真君が減刑なく残され、覚悟は出来てゐるものゝ故郷に残る老母と女子供の行先が案じられてなりません。
 米軍搭乗員処刑事件に問はれし我々は米軍のでたらめ裁判にては公明な立場を認められる迄は、死に切れない思ひで居ります。然し乍ら持つて生れし宿命と、心静かに覚悟は出来て居りますから、母上様、私の亡き後、御健在を御祈り致し、尚、公明な立場を必ず以て御天照様は明るみに出して下さり必ずわかる事と確信して死に行きます。
 運命とは申し乍ら祖国日本の為に戦つた我々が、而かも名誉の戦死を遂げ、護国の鬼となるは、此の上なき光栄なるも、戦犯囚人の汚名を着て死に行く此身、八つ裂きにされしよりもつらく死に切れず、然しいくらもがきても如何ともなし難く母上の御永寿を祈りつゝ。さらば。
  一門の方々よ
 私の刑死は絶対に恥づることはありません。世界に冠たる日本皇軍の軍紀の下、軍司令官の命令に因る忠勇なる戦闘行為を、何故か戦犯と言ふべきか。
 憎しさ胸中に溢れ、此の身、八ツ裂にされしよりもつらく死に切れない。馬鹿馬鹿しくて言葉なし。然しいくらもがいても如何とも為し難く、帝国軍人として従容死につき、永遠の平和の基石となります。
 母上始め御一同様のこと気にかゝるが、今更どうすることも出来ません。お許しを乞ふばかり、どうか御健在で幸福な日々をお過ごし下さいますやう、草葉の蔭よりお祈りします。さらば。
  辞世
 嵐吹き桜の花は散り行くも我が魂魄は国を守らん

【蛯谷令子様・笹倉三枝子様宛封書】
 令子も三枝子も元気で学校へ毎日行つて居りますか。叔父さんは四年前に満洲から家に帰つた時に、たしか令子が一年生、三枝子が幼稚園に行つて居たと思ひましたが、令子も三枝子も叔父さんの顔を覚えて居ますか。叔父さんは今度日本が戦争に負けたのでアメリカの為に裁判を受け重い罰を受け、フィリピン島と云ふ日本から遠い島に居るので、一生日本へ帰れないかも知れません。此れも日本が戦争に負けたから仕方ありません。
 三枝子はお父さんが戦死されたのでさびしいでせうが、お父さんは日本の為に戦死し靖国神社に祀られたのですから、泣いたり寂しがつたりしてはいけません。
 令子も三枝子も大きくなつたのだから、お祖母さんやお母さんの言ひ付けを良く守つて小さい知晃や弟の良いお姉さんになつて、一生懸命に勉強して立派な人になつて下さい。叔父さんは遠い島にゐて、かげながら祈つて居ります。
 又御便りします。元気で。さやうなら。
 昭二二.四.一三. 叔父林治拝

【牛島様宛封書】
 拝啓
 前段の固苦しい文句はやめにした。其の後元気かね。案じて居る。一別以来既に四星霜思へば夢の様だ。郷土の朋友等に便りをしたいのだが、再度の応召を受け無事皈還(きかん)し居るや否や疑問に思ひ、便りを書くのを躊躇して居る次第故、無事皈還の由なれば貴君から呉々も更生会員に四六四九伝言をたのむ。
 貴君等と一別してより南方戦線を志望し蘭領ハルマヘラ島及セレベス島に転戦し、何の功する処なく敗戦となり、間も無く戦犯容疑者として濠軍に抑留され、現在は御承知の通り比島マニラ市南方五十粁の地点に死刑囚として獄舎に囚はれの身となつたが、小生の行為は現在巣鴨刑務所に居る当時第二軍司令官たる豊島房太郎中将の命により(軍司令官は命令しないと忌避した日本人のくづである)米軍搭乗員を死刑に処したのであつて、命令の遵奉者たる小生等は何等天下に恥づる事はないと信じて居る。然し敗戦将兵たる我々がいくらもがくとも如何とも為し難く只残念の一字(ママ)あるのみ。内地に於ける国民が我々戦犯者に対して悪感情を持つて居るとの話を聞き情ない話である。戦犯者こそ祖国日本の為に陛下の赤子として最後迄死にものぐるひに戦つた勇士ではなかつたらうか。此の事が日本国民に諒解される迄は死んでも死にきれない気持である。小生の朋友等は皆戦線に於て戦争の辛苦を味はつて来て居るから、小生の気持を良く解して呉れると信じて居る。敗戦そして獄舎の辛苦を味はつて、初めて日本人の真価がわかつた様だ。銃後にありし国民はさうたうな敗戦の労苦を舐めた事と思ふが、まだ〱苦しみ方が足らない。もつと〱苦しんでこそ真の日本人が生れ出るのではなからうか。今次大戦に於て親や兄弟そして妻子を残して、祖国日本の為に一命を捧げた同胞幾百万の護国の英霊に対して申訳ない次第である。激越なる文句を書いたが、珍しきニュースとてもなく、感じた侭に書き並べた次第にてあしからず。
 柴田、本郷、畑君等は無事皈還(きかん)して居る様だつたら御一報下され度。貴君も細君をもらつた事と思ふが、ニュースを待つて居る。
 最後に更生会の隆昌を祈る。
 昭和二二.四.一三  林峯拝
 牛島君へ

【母上様宛封書】
 前略
 午前の蒸し暑いのに引替へ午後からは久しぶりの雨天で非常に涼しく体が気持良いですが、独房生活三ヶ月にもなると運動不足と栄養失調に精神的劣(ママ)労の為、大分衰弱した様で食欲が一向に進まず、只空腹を防ぐ為に食して居る様な状態です。然し、志気昂揚の為一号舎(全部で十人)の者で偶には演芸会をやつたり或はボール紙で将棋盤と駒を作り、独房の向ひ合せ又は隣り合せで将棋をやつたりして気分だけはほがらかです。
 一昨日私達裁判の主席弁護士が本国皈還(きかん)の為御別れに当収容所に面会に来た時、必ず減刑になるから心配せずと辛抱強く気を長く待つ様に云つて行きましたが、気休めにか或いは本当であるか、其の真偽の程は判りません。既に覚悟はして居りますが、万が一にも減刑される事があれば、小生一人の喜こびのみならず母上一同の期待期待が大きいと思ひます。こんな事は夢であるかも知れませんが、こんな事でも考へて居なければ永い独房生活は出来得ません。異動の方の話ははつきりしませんので、何とも申上げられません。もうそろ〱手紙の返事が来る頃と思ひ、今日か明日かと毎日心待ちにして居りますが、仲々来ないので待ちくたびれさうです。
 最後迄毎週便りを致します。来週また。さやうなら。
 第八信 昭二二.五.一一   林峯拝
 母上様

【母上様宛封書】
 前略
 暫らく御無沙汰致しましたのでさぞ案じ居られた事と存じます。毎週御便りをと心掛け居りますも、手紙の用紙が支給してもらへないので、今日迄延引致し誠に申訳無く存じ居ります。其の後の状況をと存じますも別段変化も有りませんが、私達裁判の再審も終り同ケース死刑四人の内風戸文之君が一人懲役二十年に減刑になり、中村隊長に小生と一条幸真君が減刑無く残されましたので、覚悟はして居たものゝ希みの綱も既に切れました。最後の日に到り何も申し残す事もありませんが、只日本人として将又帝国軍人として従容として立派な態度を以て死にのぞみたいと存じます。故郷の母上一同の事をも案じ居りますも、今更何とも致し方なく、今後御健在にて幸福な家庭を造り、日々をすごされん事を草葉の蔭より御祈り致し居ります。
 今日迄の清況をば富山市清水町の田林様が今度皈国するので家に寄るはず故、一切が判る事と存じますから手紙は書きません。此の手紙は隣りの独房の渡辺君に依頼致しました。
 友人諸君に宜敷く。
 嵐吹き
  桜の花は散り行くも
   我が魂魄は国を守らん



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